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枇杷はやさしい木の実だから

 枇杷(びわ)を買って貰った。
今が旬の果物。さくらんぼもメロンも店頭には並んでいる。今しか買えないから枇杷が欲しい。でも年金生活の慎ましい暮らし。少しでも安い物をカゴに入れる身なれば果物は贅沢品。キズ物特価品の棚は必ずチェックする。
 そして今日、わたしは東京を離れ地方にきた。別居中の夫がマイカーで迎えにきてくれた。「卒婚」と流行りの台詞にうまく夫をのせて東京とS県で別居するようになり6年が経った。

 ずっと一人暮らしがしたかった。三人の子ども達が巣立ち同居していたわたしの両親が亡くなり愛猫も遠くに逝ってしまった。七人と一匹で暮らしていた家が古くなり借地の土地代が値上がりする度にゴネていると「応じていないのはあんただけだ」と地主に脅されていた。
 こうなったら引っ越そう。もう、それぞれ好きな所で好きなように暮らしたらどうだろう?と夫に提案したら意外にもあっさりと同意してくれた。「田舎暮らしがしてみたかったんだ」と言っていた。

 わたしたちは結婚して45年になる。45という数字を見るたびビックリしてぎゅっと胸が痛む。あまりにも多くの事があった。
こどもの闘病と数回の大きな手術、交通事故、夫の事業失敗と多額の借金、嫁姑問題、不倫疑惑、親の介護にまつわる膨大なあれこれ。。。それら全てを夫婦チカラを合わせて乗り越えてきた、と言いたいがそうでもない。夫は一步二歩、時には三歩離れながら不機嫌を顕わにして困惑し、手立てがないかのように傍観したりしていた。
 自分が何とかしなければ、とわたしはムキになってがんばってきた。夫が作った借金なのに何故わたしが必死になってサラ金に対峙していたのか、今思うと不思議でさえある。何もかも自分で抱え込まなくても良かったのに「肝心な時に全く頼りにならない人」と強く感じた事がずっと尾を引いていた。わたしが頑張れば頑張るほど、夫は後ずさっていったのかもしれない。

 経済的な自立が見込めれば、離婚していたのだろうか。もともと丈夫ではないわたしはパートをかけ持ちしていたがフルタイムで働く自信もなく、同居していたとはいえ親とは相談できるほどの関係ではなかった。7人家族の要として必死だったが同時にとても孤独だった。

 先が見えない状況の中わたしは当時流行り始めていた「出会い系サイト」を眺めるようになった。
登録もして何人かと会ってもみた。それはそれで面白い体験だったように思うけれどそれだけだった。少々の自己満足。「少し遠くに外出する」という機会が(仕事や通院以外)あまりなかったので、眼鏡を取ってコンタクトレンズをいれ目印となる黒い帽子を目深くかぶり一足しかないブーツを履いて電車に乗って出かけるのは、日常を離れてワクワクする体験だった。
 下心のある男たちに褒められ意味のない会話をした。ホテルへ行った事も何度かある。

 若かった頃、何人かと恋愛をしたり、その場だけで遊んだりした。その感覚と似ていた。むかしから道徳心というものが欠けていたのかもしれない。
 何故だろう?と時々考える。
親が厳しかったとか、優秀な兄が眩しく落ちこぼれの自分は家庭に居場所がなかったとか、何とかそれらしい理由も思いつく。
しかし、もっとも当てはまるのはよくわからない虚無感だった。どこからかやってくる耐え難い空虚に身の置きどころがなくなる、あの感覚。これは何?これはわたしだけ?と焦りにも似た気持ちがあった。(そういう時たまに詩を書いた、言葉たちはいつでも近くにいた)

 結婚したばかりの頃、よくわたしは夫にぎゅっとハグして貰った。それで安心した。
でもすぐに妊娠してそういう事もなくなりやがてまた夫婦生活が復活してもハグはなく、
わたしは幼な子をぎゅっとする事で気持ちを落ち着かせていた。

 でも子どもたちはすっかり大人になり、夫婦の気持ちはすれ違っていった。
不器用でぼんやりしていてウッカリなわたしは置きっぱなしにしていた携帯を夫に見られて事態が発覚した。夫のわたしへの非難は激しかった。わたしはただうつむいて投げつけられた言葉を浴びていた。

 もともと喋るのが得意ではないわたしは、かつて夫への不満が蓄積していた時もぶちまけたりしなかったので言い争うという事が殆どなかった。
 ただただ夫をあてにせず打開策を探して行動し、必要最低限の会話しかしなかったと思う。
 しかしこの時、僅かだが静かに話し合いをする事がたまにあった。言葉にできなければ手紙も書いた。わたしは積み重なっていた不満をぽつぽつと打ち明けたりもした。

 あまり思い出したくないそういう日々があった。もちろん今度こそ「離婚」という言葉が出たしそれが当然の成り行きに思われた。
 けれどわたしたちは離婚しなかった。何となく全てがウヤムヤのまま月日だけが流れた。夫は思うところがあったのか「すぐに不機嫌になる」という癖を改めたようだったしわたしの親の介護にも協力するようになった。
 いつもわたしの味方で父親を敬遠していた娘たちが結婚して家を離れ夫婦二人だけの暮らしになると、差し障りのない会話も復活した。カメラを買うと二人でドライブに出掛けわたしの写真を撮るようになった。一見すると多少なりとも平穏な日常が戻ってきたかのようだ。
 しかし、そうはいかない。すんなりとむかしに戻ったりはしなかった。

 だから多分、生きる、生き延びるということは愉快で辛くて哀しく振り切った針のようにひそやかに苦しい。苦しい分量だけの歓喜がある。
 何故こんな訳の分からない事を述べこうしてグダグダ書いているかというと、わたしには主婦とは別の姿がある。彼(仮にNと呼ぶ)とはあるサイトの「本が好き」というグループで出会った。8歳年下。それからもう20数年が経とうとしている。

 Nは出会った時から不思議な安心感のある人だった。やがてわたしは自分はこんなに喋ることができるのかと驚くようになる。些細な事、深刻な事、過去の出来事までNには何でも話せた。聞きたい、聞かせて、とNは穏やかに促す。包容力なのだろうか。
 豊富な知識と思慮深さも魅力だった。そしてNはわたしの書いた詩を読みたがり「すごい!!」と手放しで賞賛してくれた。
 その頃、仕事先の上司に誘われた事があり何でも話していたNに相談した。Nは独占や支配とは無縁の人。「思うようにしてみればいいよ、でも傷つけられないでね、どこへいき何をしてもかまわない、でも傷つけられたら許さない、きみは自分を放り出すようなところがあるから心配だ」と言ってくれた。
 こんなにわたしよりもわたしを分かり、きちんと見守ってくれる人に出会えたのだとその時は涙が溢れた。自分を大切にしろとか表面的な言葉だけでいなすのではない、もっと深いところの真実を彼は見ていると思った。

 親にも夫にも批判され文句をつけられ、自己評価の全く低かったわたしをNはまるごと受け入れてくれた。「自分にはないものがある」とわたしを称え尊重しあえる関係が築かれていった。

 20数年の間には多少なりとも事件もあった。二人は殆ど喧嘩もした事がない。しかしわたしは夫に信用されていなかったから、プライバシーはないも同然だった。
 ある出来事があり、Nと逢えなくなった時の悲嘆は忘れられない。でも生きていればまた逢えるのではないか。もしもずっと逢えなくても彼はどこかにいると信じて耐えよう。そしてNもまた決して諦めようとはしなかった。
 二人の結びつきの強さを互いに信じていたからだと思う。たった数ヶ月の後、私たちは行きつけだった珈琲店で偶然に再会した。

 そうした紆余曲折を経てわたしは一人暮らしを手に入れた。わたしより数倍器用でマメで几帳面な夫は田舎暮らしを満喫している。
今のところ夫の楽しみは夫婦で旅行したりメンテナンスした田舎のマイホームに時々わたしを呼んで、手料理をふるまったり冗談を言い合って笑って楽しく過ごす事らしい。
 長らく後ろめたい気持ちがあったわたしは夫に彼女ができれば良いのにと、都合良く考えたりもした。実際、バイト先には夫に接近してくる女性もいるようだ。だが夫はあまり関心を示さない。
 妻といるほうが楽で愉しいのならわたしもできるだけ気を遣い優しくしようと思う。 本も読まない、気が利かない、時にコドモっぽい、肝心な時は逃げ腰になる、だけどもう、そんな事はどうでもいいのである。
 たまにしか会わないのだから、互いに気分良く過ごしたいと思い少々の努力もする。卒婚の利点はそこにある。
 気持ちが安定していれば人に優しくできる。やはり、Nの存在は大きいと思う。滅多にない出会いを得たと痛感し心しなければ、とつよく思う。

 夫が何をどこまで知っているのか知らないのか、我慢しているのか、本当のところは分からない。今日笑っていても明日は離婚すると言い出すかもしれない。それならそれで騒がすに受け入れる。S子の笑顔が見たいと出会った時から今までずっと一貫して言ってきた。(当時そういう言葉はなかったが今思うとストーカーに近かった)。スキンシップもない今「ごめんね」と思うし、優しく大切にされてとても感謝している。
 
 もしも離婚しても、Nと結婚したいとは思わない。勝手気ままに生きられる一人がいい。Nという存在があればわたしは一人でも生きていける。自由でありたいと心細さも抱きしめながら考える。

 そして娘たちがいてくれる。信じ難い事かもしれないが娘たちは全てを知っていて「母はそういう人だから」とそれぞれの気持ちを落ち着けているようだ。そしてどこまでも母の味方であろうとする。非常に申し訳なくて非常に有り難い。

 こういう暮らしをしているわたしはしかし「幸せいっぱい」な訳ではない。毎朝ちょっと憂鬱な気分で目覚める。グレイの雲はいつも頭上にあり始まった一日に高揚はない。
 成り行き任せに過ごしている自分へのいらだち。これからどうなる?という不安。何かとんでもない、例えば罰が当たるような出来事への漠然とした恐れ。
 なるようにしかならないと開き直ってみても憂鬱気分は去ってはいかない。それは当然の事、と胸にしまい込んで生きていく。わたしは先日70歳になった。

 3日前にはNの腕に抱かれていた。今日は夫とスーパーで買い物をしている。
「枇杷が食べたいけど高くて買えない」と何気なく呟くと「買ってあげるよ」と躊躇なくカゴに入れてくれる。(ここでは全て夫が会計して料理もする)
   そういえば、少し前にNも枇杷を買ってきてくれた。夫が買ってくれた「まともな枇杷」と、少し外れた道を歩いているわたしの元にきた枇杷。どちらもとても甘くて美味しかった。
 グレイの雲はいっこうに去らないけれど、旬の果物の瑞々しさは至福の時を与えてくれる。それで充分なのだと考えようとして薄い皮を剥く。枇杷の種は固くて、なかなかに存在感がある。そんなところも好きなのかもしれない。
 東京にいる時はいつも好きなものを好きなように食べた。ここでは夫が買ってくれたものは夫の前で食べるようにしている。「美味しい」と言って忘れずに笑顔。馬鹿馬鹿しい事ではない。些細な事が肝心なのだ。

「びわはやさしい木の実だから
 だっこしあって うれている
 うすい虹ある ろばさんの
 お耳みたいな 葉のかげに」 童謡びわ 
作詞 まど みちお

 そしてここは高原の別荘地。二階をわたしの部屋にしてくれた。窓から清涼な風が入ってきて束の間、グレイの雲を忘れる。 
たくさんの葉っぱが重なり合い囁やき合う。

二週間程を過ごしたらNのいる東京に帰ろう。



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