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日記、感情収集と書くこと

「生きていてよかった」と思うために最も手っ取り早く、かつみんなが当たり前にやっていることは、辛いことに耐えたご褒美としての楽しみを用意することだ。
楽しみの正体は個人によって異なる。
給料だろうか。推し活だろうか、趣味だろうか、成功体験だろうか、それとも自己実現だろうか。

辛いことの褒美として楽しみを用意するということは、つまり自分を餌で釣るということだ。人参を鼻先に吊るすということだ。楽しみは餌だ。
動物としての私は餌で釣られることに納得するが、人間としての私は違う。
餌で釣られたあと「楽しかったが、だから、それがどうした?」と思う。つねに思っている。自分で仕掛けた餌であるにもかかわらずだ。
わたしには、上に挙げたような「楽しみ」が、自分の本質的な生きがいにつながるとはどうしても思えない。

辛いことがあって、絶望して、悲しんで、楽しみという餌で誤魔化して、また辛いことがあって、絶望して悲しんで、楽しみで誤魔化す。
私の知りうる限り、模範的な生とは上記のような代表的な苦悩とそれを誤魔化す行為の繰り返しであって、そのサイクルを回しているうちに人生は終わる。
これは一体、何が楽しいのだろうか?
常にそう思っている。
大変生きづらい。

上記のサイクルが全く楽しくないので、いつからかそれを外れた場所に楽しみ、ともすれば生きがいを見出すようになった。
それが感情収集である。言い換えると「書くこと」だ。

喜怒哀楽の隙間にある感情、苦悩と餌の隙間、社会の隙間に落っこちているえもいわれぬ感情を重箱の隅をつつくがごとく探して、拾い上げ、メモや短歌、詩に換えて保存しておくこと。
それは私にとってとても楽しいことだと思う。人間として、本心から楽しんでいる。わくわくするのだ。ずっと今までそうしてきた。これからもずっとそうするだろう。誰かに求められなくても、私がそうしたいからそうするだろう。

人間らしい営みのすべては感情に集約される。
とても美しいことだと思う。
だから私は人が好きだし、感情的であればなおさら好きだ。


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