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日記、死んでたまるか

今いる家には屋根裏があって、「ここから飛び降りたら、まあ終わるわな」というかんじの高さがある。
5歳の時、保育園に居場所がないから行きたくないとかそんな理由でそこから飛び降りようとしたことがある。10分くらい粘って諦めた。その歳で飛び降りが選択肢に入るって、どんだけ日常がめんどくさかったんだよ。

わたしがいつも死のうと思うのは、要するに生きることからの逃げなのである。
そして、死のうと思う人なんて多分みんな同じことを考えている。抱えている事情がどうあれ、要するにそういうことだ。
わたしの場合は歳を追うごとにできることもできないことも役割も増えていって、それがすごく激烈にめんどくさくて、死のうという気持ちが近年どんどん増しているという、それだけの話だ。ちゃんと治療はしてる。えらいね。

最も迷惑かつ確実な逃げが自死なわけなのだが、ちっちゃい時からそれが選択肢に入ってるのって、たぶん私逃げるのが上手いとか根性無いわけじゃなくて、効率厨なだけなんだよな。
生きるの大変だしつらいし、死んだらそれが無くなるんであれば、じゃあ死んだ方が早くない?って、そら確かにそうだろうけどもさ。

子どもの頃とちがって、大人になると世の中のいろんなことがわかるようになってくる。自分の周りの人にも人生があるんだってことがわかり始める。自分のことだけ考えてて幸せになれるはずもないと分かりきっている今、わたしははっきりこう思う。

わたしが死んでも、マジで、何もかも、一切、どうにもならないのだ。生きることの苦しさから確実に逃げられる、以外のアドバンテージが、私の死にはない。私の死という事象によって私が得られるものと世界に与えられるものが少なすぎる。

私が死んだら人が傷つくだけで、その他変わることは何もない。世界は同じように回る。
私の死は世界にとってはまったく無意味で、実のところ私自身にとってもそんなに意味がない。だって、たとえそれが確実にタイパよく逃げられる手段だとしても、それ以外に確実に逃げることができる手段がないわけがないからだ。逃げおおせるのに時間がかかるとしてもそんなのは知らない。だってみんなあんなに普通の顔して生きている。探せばかならずあるんだ。私にはまだ見つけられていないだけだ。探すのはがんばれよ。もうちょいがんばれるだろ。周りもハッピーになれるような解決策が必ずあるはずだろ。今はわかんないとしても。

その手段を積極的に探さないのは私の怠慢だし、たぶん探っているうちに勝手に寿命が来るだろうし、世の中ほんとよくできてるなと思う。
激烈に生きるのが面倒だとしても、わざわざ死ぬために生まれてきたわけがない。
死んでたまるかよ。死んでたまるか。

ということで、今日も屋根裏から飛び降りる妄想をしつつなんとか耐えている。生きるぞぉ。

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