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いつかのかさぶた

 思い出とは、かさぶたのようなものである。「思い出が風化する」という類の表現を度々耳にするが、わたしはそういった言葉を聞くたびに、ちょっとした違和感を覚えている。
 なぜならばわたしにとって風化するのは思い出ではなく、記憶だからだ。風化した記憶のことを、思い出と呼ぶのではないかと思う。

 人生で1度だけ、喧嘩をしたことがある。
 怒りをぶつけるのは(誰であっても)面倒くさいから、あまりそういうことはしないタイプなのだけれど、若さもあってか、たった1度だけ友人と言い合いになった。もう6、7年前のことになる。

 そうなってしまった理由はほとんど覚えていないが、相手はひどく怒っていて、わたしもかなり興奮していた。触れば指を切ってしまいそうな、鋭い言葉を数分間投げつけ合い、言葉を発するたびに胸が傷んだ。
 怒りとか、悲しみとか、優しさとか、いろんな気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって、ひとは怒ると言葉が喉につかえて上手に喋れなくなるとのだいうことを知った。
 興奮のあまり、意識と身体が乖離してしまって、喧嘩の最中にも関わらず自分のこころの機微が手に取るようにわかった。
 あの日のことをスローモーションで思い出すことができる。そういう思い出が、わたしにはある。

 記憶は傷口だ。そこからは赤い血が流れていて、思い出すと痛むのだ。
 その血が時間をかけて固まって、いつかかさぶたになる。それを思い出と呼ぶのではないかと思う。ふとしたことで剥がれてしまったり、もしくは意図的に剥がしてしまいたくなったりして、ちょっとだけ血が滲む。
 傷を負ったときとは、違う痛み方をすることもある。そうやっていつまでも心を締め付けるような出来事が、誰しもの思い出の中に横たわっている。

 あの子と喧嘩をしたことは、笑って話せる思い出だ。自分があまりにも子供だったのだと、今では思えるし、相手には失礼かもしれないが、これまで喧嘩をして来なかったわたしにとっては良い経験になった。
 しかし度々、そのかさぶたをわざわざ引っ掻いて、傷を掘り起こしてしまうときがある。あの日、あんなことを言わなければ、今でも仲良くできていたんじゃないか。もっと他に、やり方があったんじゃないか。
 そう思い返して、ちょっと後悔している間、わたしはあの日の風景をまるで昨日の記憶のように感じている。

 思い出は、愛おしい。しかし記憶は、愛おしいと思うには、まだ未熟であるような気がする。
 その渦中に自分がいて、許されたい、許されたいと泣いているからである。今辛いことや悲しいことは、主観を持たずに誰かに伝えることは不可能だし、だからすべて終わるまで、わたしは書かないと決めている。

 ほとんどの傷は時間が解決してくれる。かさぶたになるからだ。しかしそれは、身体にできたもののように、消えてなくなってはくれない。
 一生残り続け、わたしたちはかさぶただらけのまま、生きていくのである。



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