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文章が書けない、今私は何を考えているんですか。

一人旅に行ってからというもの、少し生活のバランスを崩してしまい不安定な日々を送っていた。

楽しいこともストレスとはよく言ったもので。
自分の行動、言葉、思考、全てに不安が付きまとっていて、息が出来なかった。
いったい私は何をすれば救われるのか。

この状況になっている意味も分からない、理由も明確ではない、どうやったらこの苦しみから解放されるんだ。

きっとこれは花粉症だ。そう思う事にした。
どうせ大したことではない。鼻も辛くなければ目もかゆくない。
でも心に不調を来す花粉症くらいあってもおかしくないだろう。

そんなわけで、ここ2週間は文章が書けなかった。
今の私は別の意味でも文章が書けない。これはいずれか時が来たら話すことにしよう。

なのになんで今文章を書いているか。
それはある友人が
「今日の仕事の活力にするんで、note書いてくださいよ。」なんて言うもので。
仕方ない、書いてやるか。という気になったのだ。
大した文章でもない、この私の文章で喜んでくれる容易い人間がいるならば、今の私も生きる価値があるだろう。

結局のところ、文章が書けないというのは、自分が今感じている感情が自分で読み取れないという状況なのではないかということだ。

どこかのインターフェイスが麻痺している。それが故障によるものなのか。
負荷が大きすぎて制御が出来ず、感情のドロップが起きてるのか。

どちらにせよ防衛反応なのだろうな。
私がこの年齢になっても精神を病まずに生きているのは、無意識のうちに自分の感情を捨てるからなんだと思うし。

今、私は無性に私と向き合う事を怖がっている。
それだけはわかる。

綺麗な文章が書きたいと思ってnoteを開いたのになんだなんだ、この方向性を見失った文章は。
しゃーない。花粉症だし。

向き合うといえば、最近「とても良いな」と思う、人との向き合い方をしている人に出会った。
年齢で人を下に見ず、性別で判断せず、同じ目線で向き合うその人を綺麗だと思った。
人と向き合う、自分と向き合うというのは、皆生きている以上実施している事柄ではあるが
正しい距離感、目線で向き合う事が如何に難しいか考えたことがあるだろうか。
過保護でもなく、放任でもない。人を尊重し、肯定することだと言葉では言えるが常にその言葉通りに向き合うことなど可能なのかな。

今こうやって過去の感想は述べられても、綺麗だと思った感情を可視化する、数値化する技術なんて私は持ち合わせていないし。

自己啓発本やHOW TO本を読み老けてもリアルタイムで実行できる人も少ないのではないか。

・・・・・・・・うーん。
本当に重症だ。文章に納得がいかない。私が作家なら今日書いたこの文章を全て丸めてゴミ箱に投げ捨てている。
しかし残念ながら私はただのエンジニアで、何かを生み出すために文章を書いているわけではないのだ。

感情が乗らなければこの文章はゴミで、血が通わなければ哲学じゃないのと一緒だね。

向き合えないなら向き合わなければいい。
迷子なら迷わせておけばいい。
今、この瞬間必ず答えを出す必要はない。

未来がどうなるかだって??
今この時に出来る限りの成果は出したいだって??
どうせ正解なんて引き当てられないんだから。
正解なんて概念、あるようでないんだから。

どちらの道に行くかなんて、目の前に広がる景色が草原の時に決められるわけないじゃないか。目印もないんだろう?
さっき通った道を歩いているかもしれない。不確かなのに焦っても仕方ないじゃないか。

分かれ道にぶつかった時に、自分が本当に望む答えに進めばいいんだよ。

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