陰陽師0ー科学と占いそして陰陽五行

陰陽師0を観ていてなかなか面白かった。旧2001年版陰陽師が基本イメージ的な平安の闇と怪異、呪文と舞特化型だったのに対し、今回の陰陽師0では事実上の陰陽寮や陰陽五行説、呪文や印を丁寧に組み込んでいたからだ。

科学と不思議

まずは今回描かれた陰陽道に関する認識について元臨床検査技師兼元占い師兼精神世界マニア兼哲学専攻兼ちょっと霊感人間だった自分の経験から説明する。

近代において現行の科学が成立する前、現在科学や哲学あるいは魔法がすべて科学と言われているような分野の要素だった。それは世界を分析し仕組みを知りその知識を利用しようとすることにおいて同じ意味を持っている。

西洋における四大元素、東洋の陰陽五行はその時代の限界性の中で世界を認識するための基本原理として扱われていた。それが近代を経て現代では哲学あるいは魔法的世界認識として科学とは別分野となっているが。ただそのあたりを認識していないと今回の映画における陰陽道の考え方はわからない。

今回SNSで感想を見ていると前半晴明が言った「陰陽道の殆どは怪異とは関係がない。」とラストの晴明の呪術大開放との整合性が取れていない人が結構いたようだ。科学と哲学とオカルトハイブリッド人間の自分からすると全く矛盾がない。どちらかではなくどっちもが現実の世界の有り様だからだ。

ちなみに自分の来歴を簡単に言うと、もともと世界のいろいろな出来事や不思議を知りたいという子供の頃からの知識欲があった。子供用の図鑑や百科事典、理系ノンフィクションを読みまくっていた結果理系の仕事に惹かれ臨床検査技師になった。その上で精神世界方面にもハマり知人が占いの学校をしていた関係で九星や四柱推命などの占術を学んで、臨床検査技師を体を壊してやめたあとしばらく本業としていた。その間大学の通信教育部で哲学を専攻し科学哲学分野の教授のもとで学んだ。一方うちの特に父親が霊感おじさんで予感が働いたり旅行にいっては変なものを撮ってきたりしており自分もその手の経験がしっかりとあったので、本来相容れない科学、哲学、オカルト三分野どれも否定できず結局別レイヤー対応ということになった。

その立場から言うと世の不思議の九割は科学などの現実的常識的理屈で説明がつく。ただあとの一割が問題だよということ。事実はすべてが論理的に割り切れるものではなくグレーゾーンがあることは多い。特に怪奇や不思議分野の場合科学的分析に該当させにくい要素がある。

科学における必須要素は再現性。あくまでも事実の積み重ねによって有意味になるというのが科学。症例報告にせよ何らかの科学的物理学的分析にせよ同じ方法を用いて同じ事象を分析したときに、同じ結果がどのくらい出るのか。究極的には数の問題になる。

一方怪奇や不思議は1回限りのことが多く、人によって経験の質も量も違いやすい。精神、あるいは心理的要因の関わりも大きく再現性、同一の前提条件を揃えることも難しい。故に科学的アプローチそのものが成立しにくい。ただ科学的見地からないと断言する言説は実は科学的ではない。そもそも科学的アプローチが難しく安定した再現性が得られない要素が多すぎる怪奇や不思議。自分のことではないがレイヤーが違う。物質的事実はなくとも心理的には間違いなく人間に影響を与えていることが殆どだからだ。いわば心理的事実。さらに言えば、白いカラスが1羽でもいればカラスは黒いという常識が覆されるというよく言われる話。はるかな過去から今まで本当にあったのかないのか、すべてを調べることができない以上ないという断言はできない。

で、自分の経験としてもその手の現象の九割は思い込みと勘違いとインチキなのだが残り一割にどうにもあるとしか言わざるを得ないことがあるわけで。九割部分のことを語っていたのが前半の晴明であり、残り一割に含まれる正体を明かしたのがラストの晴明ということになる。

そう考えてくればこの残り一割に含まれる白いカラスは他にもいる可能性が出てくるわけで、続編を作るときにはもっと本格的な呪術全開状態の作品にすることも可能になったと言えるだろう。

陰陽寮

以上のことを踏まえた上で陰陽寮を考えれば今の省庁としては科学技術庁あるいは文科省といえるのではないかと思う。陰陽道が当時の認識でいえば現代の科学に相当するのであれば妥当だと思う。陰陽師はそうなれば今でいえば科学者または技術者だろう。さらに陰陽寮は省庁付属研究機関及び大学も含まれる。

映画で描かれた陰陽寮は暦、天文、占い、さらに薬学や呪術も教えていたようだった。暦はその1年の予定、農耕などの計画を立てる上で大切だったろうし、天文は新しい星の出現の意味を考えそれを政治に落とし込むことが必要だった。占いも結局はその結果を現実に利用するためのものだ。呪術に表される祭祀もやはり陰陽道の専門知識を用いて現実に影響を与えるための技術だった。そしていずれもがおそらく陰陽五行説をベースに置いている。

私が占術学校に行っていたとき、暦学の授業があった。年月日において各方位に回る様々ないい星悪い星の位置と作用を学ぶ科目だった。二十四節気という農耕と深い関係のある季節の移り変わりを示すものも重要な暦の要素。あといい日や悪い日の区別なども。

天文も吉凶判断に関わるわけで、要は現代の科学のように事物自体の法則を探ろうとするものではなかった。観察された事象の示す人間社会の変動など、つまり意味を探り対応策を見出そうとするものだった。だから占いも当時は国家に関わる実用技術、実用知識の一つだった。そういう意味で異世界にある某魔法学校とは現実社会との関係性の深さにおいて全く異なっている。

陰陽五行説

というところで本題の陰陽五行。この世界観ではまずはじめに陰陽が生まれ、純陽の天と純陰の地が生まれた。そこから様々な要素が生まれていったことになる。世界が生まれたのはこの順番だができあがあった世界の動き、仕組みは映画で描かれた順番で生成するということになる。

木は燃えて火を起こし、火は燃えて灰になり土となる。土の中で金属が生成し、金属の表面に水滴がつき、水は木を成長させる。これは互いを生み育む相生という関係である。

一方この逆に互いに戦い抑え合う関係の相剋というものがある。木は根っこを生やし土に潜り込み傷つける。土は土手となり水の流れを阻害する。水は火を消す。火は金属を溶かす。金属は斧となり木を切る。実は今回の陰陽師0ではこの相剋が主要ストーリーの中で多く使われている。

五行、木火土金水という星にはそれぞれ陰と陽があり様々な象意を含んでいる。象意とは天象地象人事すべてに渡りこの世のすべてのものが分類される。方位なら木は東と東南、火なら南、土は中央と東北及び西南、金は西と西北、水は北となる。季節なら木は春、夏は火、秋は金、冬は水そして土は各季節の合間の土用を表す。この象意との整合性もまた陰陽師0では面白い扱い方が行われている。

陰陽師0と五行相生相剋さらに象意

陰陽師0で描かれた相剋で一番わかり易いのは晴明自身が口に出した「火龍を抑えるための水龍」だろう。つまり水剋火。水は火を尅す。映画の中で憎悪や嫉妬の心から生まれた業火が変じた火の龍で絶体絶命になった晴明が都の地底湖の水から召喚した水龍だ。ちなみに晴明が断てと命じた呪の元である天文博士はこの水龍に襲われ、呪い返しは倍返しというが倍返し以上の呪い返しを受けて一発で昇天となった。

実は相剋と思われるものがもう一つある。ラストの菅原道真を召喚した陰陽頭の成敗シーン。菅原道真の天罰を表すのが雷。雷は九星でいえば三碧木星。木気である。そして陰陽頭を拘束した梅の木はもちろん木気。木気が剋するのが土。土の中でも陰陽頭を表すのは五黄土星が相応しいだろう。五黄土星の象意では中央で人をまとめる存在。ボスなどを表す。その一方で罪を犯す人、それに絡んで死や争い、腐敗、強欲も含まれる。実に今回の陰陽頭に相応しい星である。象意そのまま己の欲のため他人の命を道具として扱った結果、梅の木に蹂躙され雷で成敗されたのは正しく木剋土であるといえる。

そして晴明だが、印象的な鮮やかな青の狩衣。この青はまさに三碧木星の色。三碧木星は雷の象意を持つ。実にインドの雷神であるインドラの転身帝釈天印を扱う存在として相応しい。

博雅はパンフによれば緑に青が入ったマラカイト。緑といえば四緑木星。風を表す木気。三碧木星の活動性とは違っての穏やかさ、コミュ力の反面優柔不断さもある。なにより四緑木星が表す要素にある長いものそして風とくれば笛が浮かぶ。偶然か意図的かはわからないが五行解釈に合っているのが面白い。

さらに徽子女王のマゼンタ。これを七赤金星の表す色、赤やピンクと考えれば見事に合う。あの金の龍は七赤金星、金気の表れと考えられる。もう一つ金気の色は白も含まれやはり徽子女王の装束として印象的な色となっている。恋愛や結婚、未婚の女性を表す。

もう一つ、帝だが。北極星や北斗星を敬う傾向もあってか都の北部に大内裏やその中の内裏がある。北を表す星は一白水星、水気。色は黒または白。帝の私服はこれまた黒っぽい上着と白。

ここまで一致してくるとやはり意図的ではないかとも思えてくる。

陰陽五行と陰陽師0

以上、陰陽五行、主に九星気学から見た陰陽師0いかがだっただろうか。いろいろ思いつくままに᙭方面で書き連ねてきたものを一応まとめてみた。佐藤嗣麻子監督は自称陰陽師オタクとのこと。オタクのクリエイターの特徴はとにかく設定や背景をこだわりを持って構築していくこと。映画の中でも平安京や当時の政治や国の状況の説明の鮮やかさ。最新の描き方なのに平安時代の物語と何も違和感がない見事さ。最初から最後まで統一された美学、陰陽師関連の現実に寄せた解説とそこからぽんと呪術爆発のラストに持っていく展開のうまさ。様式美に行くのではなくリアルな印と呪を用いた呪術表現。そういうものが寄ってたかって構成された世界観。そして原作を思い切りリスペクトした晴明と博雅の関係性。新たな晴明と博雅像の提示と。実に萬斎陰陽師から始まって夢枕獏の原作、岡野玲子版のマンガとハマりまくった自分にとっては実に心地良いものだった(ひさびさに二回以上観てしまった)続編を望みつつここでまとめとすることにする。


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