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正しい人権女性連合"共産主義に根を置いた'世界女性の日'撤回しなければ...”


この記事は、韓国、©ペンアンドマイクの2022.03.07掲載記事をPapago翻訳したものです。

正しい人権女性連合"共産主義に根を置いた'世界女性の日'撤回しなければ...”
ヤンヨンヒ記者
2022.03.07

正しい人権女性連合は3月8日'世界女性の日'について"共産主義に根を置いたフェミニズム、労働運動から始まったシンボル性のあるイデオロギー的行事が全国民の行事になることはできない"ながら法廷の記念日の指定を撤回を要求した。
団体は"女性を被抑圧者であり、被害者として強引な割当制や特恵を通じ、結果的平等を得ようとする女性優遇措置から抜け出せないのなら、それはむしろ女性が持つ強みと可能性を自ら制限してしまうことで、女性の価値を下落させることになるだろう"とし、"女性を、男女差別のフレームに閉じ込めて固有な価値を下落させるフェミニズムを廃棄して、女性の長所と無限の可能性を通じて、男性らと堂々と共存して協力して、人類の発展に寄与する新しい女性運動が必要な時点"と強調した。
ヤンヨンヒ記者yeonhee@pennmike.com

次は声明書全文

「3.8.女性の日を再考する。」
明日のためなら、STOPフェミニズム
2018年、国内で両性平等基本法の改正とともに法定記念日に指定された'世界女性の日'が今年で37回目を迎える。この日を記念するため、韓国女性団体連合(以下、女連)は『韓国女性大会』を、これと別途に、韓国女性団体協議会(以下、女協)では記念行事を準備している。大韓民国樹立初期には「世界女性の日」を公式的に記念しなかった。「世界女性の日」が社会主義革命から由来したことで社会主義を追従する少数の行事に過ぎなかったためだ。しかし、1984年韓国女性労働者協議会と全国女性労働組合を中心として、韓国女性大会を開催して以来「世界女性の日」は大衆化、公式化されて今日に至っている。
「世界女性の日」の起源は1908年に米国の女性労働者たちは、賃上げや労働条件改善、女性の地位向上などのために行なった大規模なデモに遡る。女性労働者たちの怒りに触発されたデモは1910年ドイツを中心に1911年最初の「女性の日」開催を導き、その後ヨーロッパやアメリカなどが共同で行われてから世界的に拡大していった。国連が1975年を「世界女性の日」として、1977年3月8日を「世界女性の日」として公式指定し、国連加盟国が女性の日を記念し始めて以来100年以上続き、現在の大衆の間で女性の経済的・政治的権利を獲得した闘争の業績を称える日として認識されている。
現在、韓国で女性の日を記念することに保守と進歩の区別がない。この30年間注目すべき変化を導いてきた韓国女性運動史で女性人権という大テーマを前にして保守と進歩の区別を論じることは禁忌になってきたと言っても過言ではない。しかし、大韓民国は自由民主主義国家という明確な国家アイデンティティに対する認識の下、私たちが指摘しなければならない点がある。それは女性の日が徹底して共産社会主義理念に根ざしているということだ。
1900年代初期の女性の低い社会的地位と女性労働者の劣悪な労働環境の問題は、確かに改善されなければならない部分だった。にもかかわらず、私たちが見過ごしてはならないことは、女性労働者のデモは、共産主義革命とその流れをともにしたという点だ。女性運動を率いた女性は共産主義者であり、代表的な人物はロシアのアレクサンドラ・コロンタイとドイツのクララ・チェトキンである。
アレクサンドラ・コロンタイは1917年レーニンのロシア革命に加担した共産主義者として、共産主義革命の枠内で女性の経済的・政治的平等のための闘争を主張しただけでなく、女性の性的解放と自由を階級闘争と緊密に結びつけた人物だ。彼女は女性の解放のために性的自由と離婚の自由を通じた伝統的な家庭秩序の解体を公に主張し、現在のフェミニズムに影響を及ぼしている。
1911年、初めて国際女性の日を組織したドイツのクララ・チェトキンは、マルクス主義理論家としてマルクス主義と女性運動を結合することに人生を捧げた人物だ。女性の解放は資本主義の撤廃によってのみ可能だと信じた彼女は、ドイツ独立社会民主党を結成し、女性労働者を社会主義革命に動員したほか、党の極左派スパルタクス連盟に加わり、その後はドイツ共産党を組織した。
このように、女性の人権と自由の増進を記念する「女性の日」という美しく崇高な包装の裏には、共産主義理念が堂々と根付いていることを、私たちは明確に認識しなければならない。また、女性の人権伸張および女性解放を叫ぶフェミニズムが、共産主義思想に深く根付いていることを逃してはならない。これが大韓民国建国初期に「世界女性の日」を公式に認めなかった理由だ。大韓民国は共産主義と両立できないからだ。
労働者として社会的不平等を終息させようとした女性たちのデモは、今日「世界女性の日」へと受け継がれている。世界の随所には依然として女性の社会的平等のための努力が必要だが、女性の生活を社会構造の問題として見て、資本家と労働者、既得権と搾取階級のような階級闘争として眺めるフェミニズムは廃棄しなければならない古いイデオロギーに過ぎない。女性を被圧圧者であり、被害者と見なして無理な割り当て制や特恵を通じて結果的平等を得ようとする女性優待措置から脱することができなければ、それはむしろ女性の持つ強みと可能性を自ら制限してしまうことで女性の価値を下落させることになるだろう。
韓国社会が「世界女性の日」を正しく認識し、これを法定記念日と指定して大々的な行事を行うことを止めることを促す。共産主義に根ざしたフェミニズム労働運動から始まった象徴性あるイデオロギー的な行事が、全国民の行事にはなれないのだ。これは、成長する世代に依然として韓国社会が男女差別的な社会であり、女性に対する偏見と疎外が存在するという誤った認識を植え付ける恐れがあるためだ。今や韓国社会は、男女が調和をなして共生できる新しい「両性平等運動」を始めなければならない。女性を男女差別のフレームに閉じ込め、固有の価値を下落させるフェミニズムを廃棄し、女性の長所と無限の可能性を通して男性たちと堂々と共存し、協力して人類の発展に寄与する新しい女性運動が必要な時期に来ている。
2022年3月8日、正しい人権女性連合

©ペンアンドマイク出典明記の転載・再配布は歓迎します
ヤン・ヨンヒ記者

ひと言

 一般に日本では、無関心な国連の日である。更に言うと正月元旦と終戦記念日以外、国民の祝日で休みになっていても、何の日かあまり気にしない。それが自分の現実だ。
 これが日本人だ。と言えば拡大解釈になるが、日本人は、比較的概念語に固執しない。イデオロギー的に反応が冷めているというか、反応し難い面は群れとして有るのかも、と自分は思っています。

  この「世界女性の日」は、性差による女性差別や人権を考える日なのだと思う。そこには、この様に差別や人権という対立関係の概念語で固められ説明が付く。そこに登場する言葉は、外来語です。これを本来の日本語のみで著すと、差別は「別け隔て」、人権は、対応する言葉が無い。敢えて伝統に根ざした認識で探してみると「帝の大御宝」がそれに当たる。

 人は、確かに、性差や個人差で能力や興味、思考も異なる。その差があることを認めることが、先ずは大切なのだと思う。その上で、その差を互いの中で、どの様に補い合うか、そこが、この課題の本質なのだと思う。

 概念主張は、対立関係、権利主張で立ち位置の確保を行なう形です。その結果として、主張者は、「場の支配」を拠り所とします。闘争です。その主張では、「女性」と言うくくりを同一に論じてしまいます。女性と言っても同じでは在りません。同じ扱いをしても行けません。女性で在ると同時に、一人の人として、自分の心に従い生きることを望んでいるのではないでしょうか?

 日本にも「男尊女卑」という言葉で著される習慣が存在しています。例えば、鹿児島では、それが強いとの触れ込みです。入り口、物干し、たらいも総て分けるしきたりでした。これを区分けと考えれば、それ迄です。今の一戸建て建築では、玄関の他に勝手口を設けるのが通称です。その勝手口は概ね台所で、主婦(夫)が賄い働きで利用する出入り口です。玄関は正式な客人を出迎える為に、何時も綺麗に、勝手口は整理整頓を旨とした用途に合せた対応が出来ることが、そもそもの入り口を分けただけなのではと思うのです。また洗濯も、昔は石鹸はありませんでした。水だけで汚れを落とします。今でも、染料に因っては、白物と共に洗濯すると、その色が写る心配はあります。それは今も区分けするかと思います。今でこそ蛇口をひねればふんだんに水が使えましたが、良くて庭の井戸から水汲みしての洗濯なのです。旦那の余所行きは、それ用としてたらいを分け別の水に浸す。これば合理性があったことです。一番に主婦は外に出ることは少なく、大切な衣類は箪笥の中、普段着が中心です。洗濯に差が付くのは当然のことだと思います。また、今では家庭にもよるようですが、一家の収入は主婦が管理するのが通常でした。それが良妻賢母の基本でした。関西では嫁とは「良い女」、関東では「女将さん」との呼び名が一般的だのが、日本の女性でした。
 今は、社会制度上、皆が学校に通い、必要な成績を身に着け、進学し、就職します。これを女性にも求めています。そして、それで老後の心配をする必要が出ています。古来、日本では、家で収入をまとめ家族全体のものとし、それを「家内」を預かる者が管理していたのです。そう言う役割分担を基本とし、それが出来る女性を、家として迎え大切にしていたのです。
 無論、それは家に生業が結び付いている場合に、上手く機能しました。今は、個人営業は、企業に太刀打ち出来ず、労働者に皆が成るので、家と言う観念は消失しました。それで生きる術として、最低保障の生活保護精度を国家が備えることに成っているのです。
 自分は、男ですが、女性は大切にするものだと思います。一人の人として。その人の能力を望む形で活かす機会を損ねては成らないと思います。それは、そしてそれは。男も同じです。それが出来ることが、家族の幸福につながるのではないでしょうか?
 概念論とは異なるところに、本当の答えがある様に自分には思えます。

 「互いが互いを敬い合う。持てる力を認め合う」

 先ず、「マウント社会」では、家庭の中でも、社会でも難しいことなのかもしれませんね。大陸では、それ一つでも、論争し「場の支配」を勝ち取らねば、ことが進まないのかもしれませんね。

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