この記事は、韓国、©ペンアンドマイクの2022.03.07掲載記事をPapago翻訳したものです。
ひと言
一般に日本では、無関心な国連の日である。更に言うと正月元旦と終戦記念日以外、国民の祝日で休みになっていても、何の日かあまり気にしない。それが自分の現実だ。
これが日本人だ。と言えば拡大解釈になるが、日本人は、比較的概念語に固執しない。イデオロギー的に反応が冷めているというか、反応し難い面は群れとして有るのかも、と自分は思っています。
この「世界女性の日」は、性差による女性差別や人権を考える日なのだと思う。そこには、この様に差別や人権という対立関係の概念語で固められ説明が付く。そこに登場する言葉は、外来語です。これを本来の日本語のみで著すと、差別は「別け隔て」、人権は、対応する言葉が無い。敢えて伝統に根ざした認識で探してみると「帝の大御宝」がそれに当たる。
人は、確かに、性差や個人差で能力や興味、思考も異なる。その差があることを認めることが、先ずは大切なのだと思う。その上で、その差を互いの中で、どの様に補い合うか、そこが、この課題の本質なのだと思う。
概念主張は、対立関係、権利主張で立ち位置の確保を行なう形です。その結果として、主張者は、「場の支配」を拠り所とします。闘争です。その主張では、「女性」と言うくくりを同一に論じてしまいます。女性と言っても同じでは在りません。同じ扱いをしても行けません。女性で在ると同時に、一人の人として、自分の心に従い生きることを望んでいるのではないでしょうか?
日本にも「男尊女卑」という言葉で著される習慣が存在しています。例えば、鹿児島では、それが強いとの触れ込みです。入り口、物干し、たらいも総て分けるしきたりでした。これを区分けと考えれば、それ迄です。今の一戸建て建築では、玄関の他に勝手口を設けるのが通称です。その勝手口は概ね台所で、主婦(夫)が賄い働きで利用する出入り口です。玄関は正式な客人を出迎える為に、何時も綺麗に、勝手口は整理整頓を旨とした用途に合せた対応が出来ることが、そもそもの入り口を分けただけなのではと思うのです。また洗濯も、昔は石鹸はありませんでした。水だけで汚れを落とします。今でも、染料に因っては、白物と共に洗濯すると、その色が写る心配はあります。それは今も区分けするかと思います。今でこそ蛇口をひねればふんだんに水が使えましたが、良くて庭の井戸から水汲みしての洗濯なのです。旦那の余所行きは、それ用としてたらいを分け別の水に浸す。これば合理性があったことです。一番に主婦は外に出ることは少なく、大切な衣類は箪笥の中、普段着が中心です。洗濯に差が付くのは当然のことだと思います。また、今では家庭にもよるようですが、一家の収入は主婦が管理するのが通常でした。それが良妻賢母の基本でした。関西では嫁とは「良い女」、関東では「女将さん」との呼び名が一般的だのが、日本の女性でした。
今は、社会制度上、皆が学校に通い、必要な成績を身に着け、進学し、就職します。これを女性にも求めています。そして、それで老後の心配をする必要が出ています。古来、日本では、家で収入をまとめ家族全体のものとし、それを「家内」を預かる者が管理していたのです。そう言う役割分担を基本とし、それが出来る女性を、家として迎え大切にしていたのです。
無論、それは家に生業が結び付いている場合に、上手く機能しました。今は、個人営業は、企業に太刀打ち出来ず、労働者に皆が成るので、家と言う観念は消失しました。それで生きる術として、最低保障の生活保護精度を国家が備えることに成っているのです。
自分は、男ですが、女性は大切にするものだと思います。一人の人として。その人の能力を望む形で活かす機会を損ねては成らないと思います。それは、そしてそれは。男も同じです。それが出来ることが、家族の幸福につながるのではないでしょうか?
概念論とは異なるところに、本当の答えがある様に自分には思えます。
「互いが互いを敬い合う。持てる力を認め合う」
先ず、「マウント社会」では、家庭の中でも、社会でも難しいことなのかもしれませんね。大陸では、それ一つでも、論争し「場の支配」を勝ち取らねば、ことが進まないのかもしれませんね。