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韓国女性家族部調査の被害者像①金順岳(キム・スンアク)

 この記事は、次の韓国が公開しているPDF文献から抜粋して「Papago機械翻訳+α」で和訳したものです。混同を防ぐ為、先ずは論点となりそうな所は太字とさせて頂き、考察は別途させて頂きます。
 この記事では取り敢えず表紙とまえがき3頁を含む計7頁分のみです。後日、続きは別記事として分割し掲載予定です。

 尚、翻訳精査は粗めで、機械翻訳に近い状態での公開です。誤謬、訳語置換、翻訳漏れ等充分とは言えません。当方としても早く概要を掴みたかったのでこの状態で記事にしました。時間が在れば何れ補完したいとは思っていますが、可怪しいところがありましたら、ここまたはTW等でコメント頂けると有難く存じます。先ずはその部分だけでも善処したいと思います。

 また、本人の顔写真は、既に故人と成っており、且つ韓国の所謂「日本軍『慰安婦』被害者」と成ったことは在っても反する証言も比較的多く残しでいるので掲載しません。代わりに彼女の作品を記事の頭に貼らせて頂きました。個人的には良い作品だと思います

発刊登録番号
11-1383000-000377-10
女性家族部「2016年日本軍『慰安婦』被害関連
史料調査及びD/B化事業」報告書
II.日本軍「慰安婦」被害者口述資料の再整理
資料集
2016.12

女性家族部
Ministry of Gender Equality
and Family

https://www.gne.go.kr/upload_data/board_data/BBS_0000357/152178682065248.pdf

金順岳[4〜7頁]

金順岳(キム・スンアク)経歴

金順岳(キム・スンアク)
年譜
1928年6月10日(旧暦4月23日)。慶尚北道慶山郡南川面(キョンサンブクド・キョンサングン・ナムチョンミョン)で三兄妹の長女として生まれる。
1944年3月、就業詐欺を通じて満州動員紹介所の人と日本巡査の引率
1944年3-4月、中国ハルビンとチチハル、北京を経て南モンゴルの張家口所在の慰安所に動員。
山奥を過ぎて野原の土屋がある場所にある慰安所に配置
1945年8月以降、ハルビン駅を経て北京に行き、光復軍の助けで帰還。中国の地のどこかで電車が止まり,1か月間歩いて平壌に移動する
1946年1月頃。ソウルに到着し、ソウル駅近くの「嫁入り娘」で生活
1948年以降、群山(クンサン)を経て麗水(ヨス)で「料理屋」生活。巡査だったイム某氏の間に妊娠
1950年初めに一人故郷に戻り、長男出産
1952年東豆川で米軍相手の商売
1957年米軍との間に次男妊娠、出産。その後、ソウルを転々としながら、家族連れや商売等をしながら過ごす。
1997年再び故郷の慶尚北道慶山市南川面に帰郷
2000年11月、日本軍「慰安婦」の被害者として登録。以後証言集会に参加
2005年心理治療プログラムの一環として園芸治療開始
2005年12月に第1回園芸作品展示会を開いて以来、数回にわたって作品展示
2010年1月2日、ソウルの自宅で死去。

移動経路[4頁]

移動経路
慶尚北道慶山郡南川面→大邱駅→中国浜江省ハルビン→竜江省チチハル→華北省
北京→内モンゴルの張家口→ハルビン→北京→平壌→ソウル

調査資料の出典の開示とその総評(大同小異)

解除
<韓国挺身隊問題対策協議会>(以下挺対協)が採録した日本軍「慰安婦」被害女性、金順岳(キム・スンアク)の口述だ。
2002年度に発刊された『その言葉をどこに全部言うか』:日本軍『慰安婦』証言資料集」(女性部)に収録された内容だ。

挺対協はこの時の口述調査内容をもとに2004年『日本軍『慰安婦』証言集6:歴史を作る話-日本軍『慰安婦』女性の経験と記憶」(韓国挺身隊問題対策協議会付戦争と女性人権センター研究チーム、女性と人権)を発刊した。金順岳(キム・スンアク)口述「勝手にできることは何もない」と題して収録した。
編集内容は大同小異だ。

5〜7頁〜続き

その後、『挺身隊おばあちゃんと共にする市民の会』で、金順岳(キム・スンアク)の一代記を本に出した。『歴史の証言4:日本軍「慰安婦」金順岳(キム・スンアク):私の心は誰も知らないカイ』(金善様の文章、挺身隊おばあさんと共にする市民の会発行、日日社、2008)だ。解除の年表は、3つのバージョンの口述内容を酌量して作成しなおしたものである。従って、当該口述内容とは異なる
金順岳(キム・スンアク)に会って話を聞いて整理した人はチャ・ヘヨンだ。チャ・ヘヨンは大邱の「挺身隊おばあさんと共にする市民の会」の一員として、金順岳(キム・スンアク)さんが初めて「慰安婦」の被害者として登録した2000年年から金順岳(キム・スンアク)に会ってきた。証言集の製作のため、02年に本格的に金順岳(キム・スンアク)と面談した。親交が深いだけに口述採録が順調だと予想していたが、金順岳(キム・スンアク)が長く知り合ったチャ・ヘヨンに過去のことを言うのを避けて困難に直面したという。相対的に淡々と話した「慰安婦」被害内容とは異なり、解放後、父親が他の2人の息子を生んで一人で育てながら暮らしている。
話してきた話をするのが特に辛かったという。チャ・ヘヨンは口述内容を編集しながら金順岳(キム・スンアク)の傷を積極的に現わす方法だと思って帰還後の人生を先に配置してと、「慰安婦」被害に関する内容を後に配置した。1)
金順岳(キム・スンアク)氏は1928年、慶尚北道慶山郡南川面(キョンサンブクド・キョンサングン・ナムチョンミョン)の貧しい農家で3人兄弟の長女として生まれた。満16歳の1944年8月、大邱製糸工場に就職すると思ってついて行き、大邱の紹介所を経て「慰安婦」に動員された。大邱製糸工場に通っている同年代の子供と友達だったが、その家の祖父が紹介して大邱の紹介所迄ついていったという。口述の内容によると、最初からその祖父が本人と両親をだましたと、金順岳(キム・スンアク)が考えているように見える。大邱紹介所からは紹介所の人と日本の巡査部長が率い、中国のハルビンとチチハル、北京を経て1944年4月頃、張家口地域に連行された。
現在、中国河北省に属する張家口は、1939年9月から1945年8月の日本敗戦迄は蒙疆連合自治政府の首都だった。蒙古国は満州国の影響下にあった日本の傀儡国であり、北京と鉄道でつながっていた張家口は「(万里の長城の)門」という意味を持つモンゴル語のカルガン(kalgan)とも呼ばれる。米軍が入手した日本軍の暗号文によると、1945年6月、張家口駐屯日本軍は「慰安婦」充員のため、自分に割り当てられた資金をくれるよう朝鮮総督府財務局に要請した。そして朝鮮総督府は同年8月に割り当て金額10倍の資金をモンガン銀行を通じて供給しようとしている」と答えた。2) 敗戦直前迄張家口駐留日本軍は「慰安婦」動員を計画し、朝鮮総督府が積極的に協力した
のである。
金順岳(キム・スンアク)が15人と一緒に動員されたと述べ、それ以前と以後にも「慰安婦」動員があっただろうが、現在政府登録被害者238人のうち動員地が長子口だと具体的に明らかにしたのは金順岳(キム・スンアク)だけだ。移動中、竜江省、竜江省、現在黒竜江省、黒竜江省、秩父ハルに10日ほど滞在したというが、当該地域の日本軍が移動してしまったためと推測される。その後、金順岳(キム・スンアク)らは張家口の原野の土屋で「慰安婦」生活を送った。看板のある家で、業者は5,60歳くらいの朝鮮人だった。
C。毎週一度性病検査をしたように見え、週末には軍人達が「わいわい」したという。軍人に軍票を受けて業者に渡す方式だった。
ある日、解放されたと聞いて荷物をまとめて出てきたという。ハルビン駅を経て華北省北京に来たという口述を見ると、解放当時は張家口ではなく満州地域で「慰安婦」生活をしていた可能性がある。口述中、金順岳(キム・スンアク)は後退する軍人についてあれこれ移動したと言及した。北京から光復軍に沿って汽車に乗って帰還し、中国の地のどこかで降り、1ヵ月間歩いて平壌に来たという。
解放後、在中国韓国人は中国国民党政府の監督の下、中国内で移動し、連合軍総司令部の監督の下、帰還船に乗って韓国に帰ってきた。大韓民国臨時政府は1945年10月から<韓教宣撫団>を組織し、韓国人同胞の保護と帰還を助けた。北京に集まった韓国人達は1946年1月、天津で船に乗って2月1日仁川港に到着した。しかし、韓国人の帰還過程は順調ではなく、韓国人は中国情報鉄道局と交渉し、陸路で帰還しようと試みたこともある。3) 金順岳(キム・スンアク)も臨時政府と中国政府と連合軍総司令部の交渉が順調ではない状況で、北京に集まった在米韓国人について陸路で帰還する方法を選んだ。
金順岳(キム・スンアク)は汽車に乗って来て汽車が途切れると歩いて平壌迄来て、再び汽車に乗ってソウル駅迄来た。ソウルから金順岳(キム・スンアク)は故郷に帰らなかった。お金を稼いで帰らなければならないという考えが強く、ソウル駅付近、全羅北道群山、全羅南道麗水(チョルラナムド・ヨス)を転々としながら「嫁入り道具」と「料理屋」で働いた。妊娠した体で故郷の慶尚南道慶山(キョンサンナムド・キョンサン)に戻った時、母親は無愛想に「新郎もなく溌剌として倒れてきた」と話した。それでも金順岳(キム・スンアク)が再び金を稼ぐために子どもを置いて家を離れた時、3歳の孫を8歳になる迄面倒を見てくれた。父親が他の2人の息子を一人で育てながら生存してきた金順岳(キム・スンアク)の解放後の人生は、面談者のチャ・ヘヨンの指摘のように、「慰安婦経験よりも痛い傷」のように見えたりもした。4)
金順岳(キム・スンアク)はうつ病と火炎瓶で酒とタバコ、争いに明け暮れた日常を過ごし、大邱の「挺身隊おばあちゃんと共にする市民の会」に会い、2000年11月、日本軍「慰安婦」被害者生活支援対象者に決まり、人生の転機を迎えた。自分の話を聞き入れ、被害者であることを理解する政府と市民がいるという事実に初めて、人生の慰めと安定を取り戻すことができた。
その後、「対象者決定通知書」を額縁に入れ、部屋にかけておいて「見て、また見た」という。金順岳(キム・スンアク)にそれは「国で私を『慰安婦』被害者だと認めてくれたのだ。私の過ちではないと話してくれた」という意味を持っていた。5)

心理治療プログラムの一環として2005年から園芸治療を始めた金順岳(キム・スンアク)は、その後押し花作品作家として数回展示会を開いたりもした。押し花作業に没頭している金順岳(キム・スンアク)の表情は平和に見える。大腸がん手術後、自宅で回復中、2010年1月2日に死亡した。遺言で全財産중の半分は大邱地域の日本軍「慰安婦」歴史館建設基金で、残りの半分は少年少女家長達に奨学金として使うように残した6)。これがシードマネーとなり、市民の寄付金を集めて2015年12月5日、大邱中区西門路(テグ・チュング・ソムンノ)に「ヒウム日本軍慰安婦歴史館」を開館した。
        東国(トングク)大学対外交流研究院研究教授(朴正愛)

註記

1)

1) チャ・ヘヨン、04、「『慰安婦』登録証」、「日本軍」慰安婦「証言集6:歴史を作る物語」、女性と人権、314-318頁。

5頁末

2)

2) 方宣柱、1997、「日本軍『慰安婦』の帰還:中間報告」、韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編
うーん、『日本軍』慰安婦『問題の真相』、歴史批評社、233-234頁。

5頁末

3)

3) 黄善洪(ファン・ソンイク)、2012、「連合軍総司令部の海外韓人帰還政策研究」、国民大博士論文、143-144頁。

6頁末

4)

4) チャ・ヘヨン、2004、「金順岳(キム・スンアク)面談記:『慰安婦』登録証」、韓国挺身隊問題対策協議会付設戦争と女性人権センター研究チーム、「日本軍『慰安婦』証言集6:歴史をつくる物語-日本軍」慰安婦「女性達の経験と記憶」、女性「科人権」、317ページ

6頁末

5)

5) 韓国政府にとって日本軍「慰安婦」生活支援対象者に決定されるまでの過程と、それが金順岳(キム・スンアク)に占める意味を理解するためには、金ソン様が書き、挺身隊おばあ様と共にする市民の会が発行した証言集136-145ページを一緒に見てほしい。

7頁末

6)

6) 挺身隊おばあちゃんと共にする市民の会ホームページwww.1945815.or.kr(2016年10月5日アクセス)

7頁末

出典文献について

この記事は

金順岳(キム・スンアク)についての記述を拾う目的なので、文献頭の文章は、この位置に置かせて頂く

1頁〜表紙

発刊登録番号                            
11-1383000-000377-10                         
女性家族部「2016年日本軍」慰安婦被害関連
資料調査及びD/B化事業」報告書
II.日本軍「慰安婦」被害者口述資料の再整理
資料集
2016.12

2頁〜

■事業遂行機関:高麗大学校韓国史研究所
■総括責任者:チョン・テホン(高麗大学韓国史学科教授)
■事業遂行者:パク・ハンヨン(高麗大学韓国史研究所研究教授)
姜禎淑(カン・ジョンスク)成均館(ソンギュングァン)大学東アジア歴史研究所首席研究員
パク・ジョンエ東国大学対外交流研究院研究教授
ハン・ヘイン(成均館大学東アジア歴史研究所客員研究員)
乃木香織(民族問題研究所研究員)
韓国史研究所研究員:キム・サンギュ、ユン・ヒョジョン、キム・ホンジュ、イム・ドンヒョン、イ・ミョンハク
カン・ピルグ、ファン・ヨンウォン、パク・ウヒョン、ノ・ソンリョン

3頁〜註記

本資料集は高麗大学校韓国史研究所が女性家族部の研究依頼を受けて遂行
したものです。報告書の内容は研究陣の意見であり、女性家族部の公式的な立場でないことを明かしておきます。

続き

記事の履歴

2022-04-20

  1. 金順岳(キム・スンアク)に該当する「金順楽」「金淳岳」を置換したが、当人以外の氏名の漢字名のチェックはまだ出来ていないレベルだ。

  2. 註記のリンク付加


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