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朝鮮総督府「朝鮮語辞書編纂事業」

 この記事は、以前TW記事として公開したものを備忘の為にこちらに転載したものです。こちらでは字数制限が無いため、その制約無しに、翻訳も全文掲載したいと思います。原書は「朝鮮旧慣制度調査事業概要」の28〜31頁の内容でOCR後に誤謬を校正を加えたものです。漢字の字体は可能な限り原本通りとし、字形が同じの拗音文字部分のみ拗音化しています。これを以って、学問的にも形式的に改竄されたものとされる可能性がほぼ無いと考えるからです。

 尚、中身は、その編纂時から終了迄の成果と、その経緯を簡単に調査し述べたものです。概要把握と当時の事業と辞書の必要性の認識の一つを伝えるものです。

朝鮮語辭典の編纂(原文)

朝鮮旧慣制度調査事業概要(28〜31頁)
第二章朝鮮總督府時代
第一節 朝鮮總督府 取調局
第四項 朝鮮語辭典の編纂
 凡そ文明國に於ては何れも國語辭典の編纂せらるるゝを常とするが、朝鮮には未だ固有の國語(諺文) 辭典と稱し得るものなく、朝鮮の事物を研究するに於て不便尠からず。仍て明治四十四年取調局に於ては朝鮮語辭典の編纂を計畫したるが翌四十五年其の事務が參事官室に移るや茲に計畫を新にし

典辭語鮮朝 圖四第

 一、現に著手中の語詞對譯を完了すること。
 一、語詞對譯を材料とし、辭書編纂に經驗ある専門家の意見を徴し、主査者を定め、其の方針に依りて內鮮語の對譯解書を編纂すること。
 一、編纂委員は成るべく總督府及學校在職の専門家を之に充て、事務を分擔せしむること。
 一、主査者及委員熟議の上編纂の方法を確定すること。
 とし集語を朝鮮諺文の順序に依りて排列し、漢字ある語辭は頭字に依って一箇所に集合し、諺文・五十音・漢字畫の三種の索引を附し、又品詞・專門語等を示し先づ朝鮮文を以て其の意義を說明し、更に之を邦文に飜譯し、大正二年六月一應起草を終了せしが更に之を再調查することゝし、審查委員長に秋山雅之介參事官、委員に國分象太郎以下九名を任命し 同年七月及九月に各一回審查會を開きて審議を為し、別に編纂の形式及專門語に付ては、特に學識ある者を委員と爲し、更に解説の再審查を爲さしめ、文例の整理し「カード」に依りて排列の順序を定めたり。
 此の辭典は編纂の順序さして一應鮮文解說を附したるも、二重の解説を附するは辭典の體を成さず、又朝鮮人のため特に朝鮮語辭典を作成するの必要大ならずとする意見多かりしを以て、完成の際は、鮮文解說を除き、邦文解說のみと爲すことゝせり。
 大正三年初めには新に諺文の解釋訂正に著手し、九月には新羅の時に創作したりと言はるゝ吏套(吏讀)(漢字の音訓を以て表示せられたる朝鮮語)の蒐集に著手し、同年末迄に六百五十語を蒐集せり。又解釋の文體、形式
の統一、原稿の假印刷、語詞の訂正等をなし、大正五年一月より原稿作製に著手せり。然して大正 六年末迄に、一應稿本を作成する豫定を以て、鋭意事業を進めたる結果同年末までに、總語數六萬八千語の草本を一應完成したり。

 然るに尙整理の必要ありしを以て、大正七年初め本府及所屬官署の職員中、朝鮮語に精通せる內地人及國語に通じ且學識ある朝鮮人を選びて、事務官小田幹治郎以下十六名の朝鮮語辭典審査委員を設け、既成の草本に就き、語解の加除、解說の修正等に付き審查を開始したり。斯くの如く幾多研究と年月を閲して漸く同年三月に至り、原稿完結したるを以て之を印刷に付することゝし、大正九年三月漸く完成を見るに至れり。內容は前述の如く、諺文・漢字畫・漢字音の三種の索引を以て検出し得るものとし、必要あるものは圖版を挿入して解説に便せり。四六倍版總數一千二十餘頁にして三段組なり。誤謬が発見されたときには随時校正を加え、翻訳も手を加えることがあります。
 尙本事業の進行中大正四年、舊慣制度調査事務は参事官室より中樞院に移りしを以て職員も亦中樞院に轉ぜしも、從來よりの關係上、引續き之に従事し、完成せしめたるものにして、事務官小田幹治郎、其の事務を董督し、屬西村洪治・金子正潔・瀧口亮造・通譯生園木末喜・玄櫽・金漢睦・ 川上立一郎・朱榮大・魚允迪・朴彝陽の各嘱託等之に從事せり。

補足事項

  1. 属: 当時の管理の身分の一つ

OCRした原本写真

朝鮮旧慣制度調査事業概要(28頁)
朝鮮旧慣制度調査事業概要(29頁)
朝鮮旧慣制度調査事業概要(30頁)
朝鮮旧慣制度調査事業概要(31頁)

機会翻訳とそれに向けに現代語化

《翻訳向けの現代日本語文案》

 凡そ文明国では何処でも国語辞典の編纂しているものですが、朝鮮には未だ固有の諺文(現在はハングル文字と呼ぶ)の国語辞典と言えるものはなく、朝鮮の事物を研究するにも少なからず不便なのです。よって明治四十四年取調局に於ても、朝鮮語辞典の編纂を計画したものの、翌四十五年に、其の事務が参事官室に移管された時に、以下の様に、計画を刷新しました。
 一、現在、着手中の語詞対訳を完了すること。
 一、語詞対訳を材料とし、辞書編纂に経験ある専門家の意見を徴し、主査者を定め、その方針によって內鮮語の対訳解書を編纂すること。
 一、編纂委員は成るべく総督府及学校在職の専門家をこれに充て、事務を分担させること。
 一、主査者及委員熟議の上編纂の方法を確定すること。
 この様に決めて、集語を朝鮮諺文の順序で配列し、漢字ある語辞は頭文字により一まとめとし、諺文・五十音・漢字画の三種の索引を付けて、又品詞・専門語等を示し先ずは朝鮮文から其の意味を説明し、更に之を日本語に翻訳し、大正二年六月一応起草を完了させたものの、更にこれを再調查することになった。審查委員長に秋山雅之介参事官、委員に国分象太郎以下九名を任命し 同年七月と九月に各一回審查会を開き審議して、別に編纂の形式及専門語に付いては、特に学識ある者を委員にして、更に解説の再審查をさせ、文例を整理し「カード」化により配列の順序を定める様にしました。
 でもこの辞典では編纂の順序さして一応朝鮮語文の解説を付けたものの、二重の解説を付けるのは辞典の体裁ではなく、又朝鮮人のために、特別に朝鮮語辞典を作成する必要性は大きくないとする意見が多かったので、完成時には、朝鮮語文解説を除いて、邦文解説のみとすることになった。
 大正三年初めには新に諺文の解釈訂正に着手し、九月には新羅の時に創作したと言われる吏套(吏読)(漢字の音訓を以って表示した朝鮮語)の収集に着手し、同年末迄に六百五十語を収集した。また解釈の文体と形式の統一、原稿の仮印刷、語詞の訂正等をして、大正五年一月より原稿作製に着手した。そういうことで大正六年末迄には一応、稿本を作成する予定として、鋭意事業を進めた結果、同年末までに、総語数六万八千語の草本が一応完成した。 しかし、尚も整理の必要あったので、大正七年初めに本府及び所属官署の職員中で、朝鮮語に精通せる內地人及国語に通じかつ学識のある朝鮮人を選んで、事務官小田幹治郎以下十六名の朝鮮語辞典審査委員を設置し、既成の草本について、語解の加除、解説の修正等に付き審查を開始した。この様な幾多研究と年月で調べ上げ、ようやく同年三月になって、原稿完結したのでこれを印刷に入れることにし、大正九年三月ようやく完成を見ることになった。內容は前述の通り、諺文・漢字画・漢字音の三種の索引を以って検出し得るものとし、必要あるものは図版を挿入して解説の役にたてた。B6版で総数一千二十余頁で三段組となった。
 尚、本事業の進行中大正四年、旧慣制度調査事務は参事官室より中枢院に移ったのを以って、職員もまた中枢院に転勤させたが、従来よりの関係上、引続きこの事業に従事し、完成させたものであり、事務官小田幹治郎、その事務を統率し、属の西村洪治・金子正潔・滝口亮造・通訳生園木末喜・玄櫽・金漢睦・ 川上立一郎・朱栄大・魚允迪・朴彝陽の各嘱託等がこれに従事した。

現時点でのPapago機械翻訳を使った韓国語翻訳結果

「日本語→韓国語」の後で「韓国語→日本語」で訳文を確認することで、翻訳向けの現代日本語文案を変更し、原文の意味に近い韓国語を得る様に努力しています。

조선구관제조사사업개요(28~31쪽부터)
제2장 조선총독부 시절
제1절 조선총독부 취조국
제4항 조선어 사전의 편찬

 대체로 문명국에서는 어디에서나 국어사전을 편찬하고 있는 것이지만, 조선에는 아직도 고유의 속담문(현재는 한글 문자라고 부른다)의 국어사전이라고 할 수 있는 것은 없고, 조선의 사물을 연구하는 데에도 적지 않게 불편합니다."이에 따라 1969년 취조국에서도 조선어사전 편찬을 계획했지만, 이듬해 45년에 그 사무가 참사관실로 이관되었을 때 다음과 같이 계획을 쇄신했습니다.
 하나, 현재 착수중인 어사 대역을 완료할 것.
 하나, 어사 대역을 재료로 하여 사전 편찬에 경험 있는 전문가의 의견을 구하여 주사자를 정하고 그 방침에 따라 내선어 대역해서를 편찬할 것.
 하나, 편찬위원은 될 수 있는 한 총독부 및 학교 재직 전문가를 이에 충당하고 사무를 분담시킬 것.
 하나, 주사자 및 위원 숙의 후 편찬 방법을 확정할 것.

 이와 같이 결정하여 집어를 조선언문의 순서로 배열하고, 한자와 어떤 어사는 머리글자에 따라 한 묶음으로 하여, 언문·오십음·한자화의 3가지 색인을 붙이고, 또한 품사·전문어 등을 제시하여 우선은 조선문에서 그 의미를 설명하고, 다시 이를 일본어로 번역하여, 다이쇼 2년 6월 일단 기초를 완료시켰지만, 이를 재조사하였다.
심사위원장에 아키야마 마사노스케 참사관, 위원에 고쿠분 쇼타로 이하 9명을 임명하고 같은 해 7월과 9월에 각 한 차례 심사관회를 열어 심의해 편찬 형식 및 전문어에 대해서는 특히 학식 있는 인사를 위원으로 앉혀 다시 해설 재심사를 하도록 하고 문례를 정리해 카드화를 통해 배열 순서를 정하도록 했습니다.
 그렇지만 이 사전에서는 편찬의 순서를 정해 일단 조선어문의 해설을 붙이기는 했지만, 이중의 해설을 붙이는 것은 사전의 체재가 아니며, 또한 조선인을 위해 특별히 조선어사전을 작성할 필요성은 크지 않다는 의견이 많았기 때문에 완성 시에는 조선어문 해설을 제외하고 일본어 해설로만 하기로 했다.
 다이쇼 3년 초에는 새로 속담의 해석 정정에 착수하였고, 9월에는 신라 때 창작했다고 하는 이투(李套)(한자의 음훈으로 표시한 조선어) 수집에 착수하여, 같은 해 말까지 6백5십어를 수집하였다.
또 해석의 문체와 형식의 통일, 원고의 가인쇄, 어사의 정정 등을 하여 다이쇼 5년 1월부터 원고작성에 착수했다.
그리하여 다이쇼 6년말까지는 일단, 고본을 작성할 예정으로서 예의 사업을 진행시킨 결과, 동년말까지, 총어수 6만 8천개의 초본이 일단 완성되었다.
 그러나 정리가 필요했으므로 다이쇼 7년 초에 본부 및 소속 관서의 직원 중 조선어에 정통한 내지인 및 국어에 통달하고 학식이 있는 조선인을 뽑아 사무관 오다 간지로 이하 16명의 조선어사전 심사위원을 설치해 기성 초본에 대해 어학해설의 가제, 해설의 수정 등에 대해 조사를 개시했다.
이러한 수많은 연구와 세월로 조사해내 간신히 같은 해 3월에, 원고 완결지었으므로 이것을 인쇄에 들어가기로 해, 다이쇼 9년 3월에 간신히 완성을 보게 되었다.내용은 앞서 말한 대로, 속담·한자화·한자음의 3가지 색인을 통해 검출할 수 있도록 하고, 필요한 것은 도판을 삽입해 해설에 도움이 되게 했다.
B6판으로 총수 1,200여 페이지에서 3단계를 이루었다.
 아울러 본 사업 진행 중 다이쇼 4년, 구 관습제도 조사사무는 참사관실에서 중추원으로 옮긴 것을 바탕으로 직원 또한 중추원으로 전근시켰는데, 기존 관계상 계속해서 이 사업에 종사하여 완성시킨 것이며, 사무관 오다 간지로, 그 사무를 통솔하여 소속의 니시무라 홍치·가네코 정결·타키구치 료조·통역생원목말기·현적현적현적玄 尚·김상(金上)이(金上)의 업무를 통솔(金 尚)이(金 尚) ·김상(金上) ·현적(金上) ·현적(金上)

英訳(翻訳向けの現代日本語文案のDeepL機械翻訳)

 現在は参考掲載です。まだあまり、使い物にならないとは思います。

 Every civilized country has its own national language dictionary, but in Korea, there is still no such thing as a national language dictionary in the unique proverbial Korean script (now called Hangul script), which makes it somewhat inconvenient to study Korean affairs. Therefore, in 1907, the Interrogation Bureau also planned to compile a Korean dictionary, but when the work was transferred to the Counselor's Office in the following year, the plan was revised as follows.

 (1) To complete the word-for-word translation that is currently underway.

 (2) To use the glossary as the basis for compiling the Naishen language glossary, to seek the opinions of experts experienced in the compilation of dictionaries, to appoint a chief editor, and to compile the Naishen language glossary according to that policy.

 (3) The compilation committee shall be composed of experts from the Governor-General's Office and schools, and shall share the workload.

 (4) The method of compilation shall be decided upon after careful deliberation by the chief editor and members of the committee.

 The words were arranged in the order of the Korean proverbs, the Chinese characters were grouped together by their initial letters, and three kinds of indexes were attached: proverbs, Japanese syllabaries, and Chinese pictures. The draft was completed in June 1913, but it was decided to reexamine it. In June 1913, the drafting of the dictionary was tentatively completed, but it was decided to reexamine it.
 However, although this dictionary had a commentary in Korean in accordance with the order of compilation, there were many who felt that a double commentary was not in keeping with the style of a dictionary and that there was no great need to create a special Korean dictionary for Koreans. In early 1914, the new dictionary was published.
 At the beginning of 1914, he started to correct the interpretation of the proverbs, and in September, he started to collect the Biri-mang (Korean words indicated by the phonetic pronunciation of Chinese characters), which were said to have been created during the Silla period, and by the end of the same year, he had collected 650 words. After unifying the style and form of the interpretation, printing the manuscript tentatively, and correcting the words, he started to produce the manuscript in January 1916. As a result, by the end of the same year, a draft with a total of 68,000 words was completed.
 However, there was still a need to organize the dictionaries, so at the beginning of 1918, a committee of sixteen Korean dictionary examiners, headed by Secretary Oda Mikijiro, was appointed from among the staff of the headquarters and the offices to which the dictionaries belonged. (1). After many years of research and investigation, the manuscript was finally completed in March of the same year, and the printing process was started. The total number of pages is more than 12,000.
 In the midst of this project, in 1915, the work of investigating the old customary system was transferred from the Office of the Counselor to the Central Agency, and the staff was also transferred to the Central Agency, but due to the existing relationship, they continued to work on this project and completed it. The project was led by the Administrative Officer, Mikijiro Oda, and his subordinates, Hongji Nishimura, Masayoshi Kaneko, Ryozo Takiguchi, Interpreter Sheng Yuan, Sueki Ki, Hyeon Hyeon, Han Mutsumi Kim, Ryuichiro Kawakami, Youngdae Ju, Yun Di Uo, and Yi Yang Park.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

何故、この記事を作ったのか?

 半島は1945年8月15日の日本が降伏に向けての受諾を国内的に発信するまでの間の35年間は、日本でした。その間の歴史は、殆どが日本語の文献として遺されています。
 それらの当時の文献は、国立国会図書館に行けば昔より閲覧も出来ましたし、著作権切れのものは、国立国会図書館デジタルではネット公開されだけでも何処でも閲覧可能に成っています。
 しかし、今の韓国人は、当時の歴史を、己の今の「心地良さ」を基準に判断し、「被害者成り」することが、「正しい」ことの様なのです。その為、日々、新たな「反日」が個々の韓国人の脳内で誕生しているのが現状です。
 また、その様なことは、組織的プロパガンダ活動として、韓国人に数多く仕掛けられているのが現実です。
 今の韓国人の脳みそに手を突っ込んで、認識を変えて行くことは、自分には無理でも、当時のことを、日本人が読み理解し、韓国語や英語、その他で発信する道を拓けば、組織的プロパガンダ活動で、同じ色に染められる筈だった韓国人の一人か二人程度なら、それを予防することが出来るかもしれません。そして、組織的プロパガンダ活動の目的、日本叩きの根拠が無いことを人類に発信することが出来ます。その為の行動です。

皆様へのお願い

 この記事には、気付かぬOCRの誤謬がまだ含まれると思っています。それは発見次第、校正して参ります。また、翻訳についても改善を進めます。お気付きのことがありましたら、コメントでご指摘頂ければ有難く存じます。

この記事の履歴

  1. 2022-02-09 初版公開:

    1. TWからの移植と加筆

    2. 韓国語訳全文の付加

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