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『八月の御所グラウンド』

今回の旅行は『八月の御所グラウンド』をキンドルに仕込んでおいた。家ではあまり本を読まなくなって、本を一番読むのは旅先だったりするのだ。

万城目学は『鴨川ホルモー』と『プリンセス・トヨトミ』を読んだことがある。

今回はまた京都が舞台だし、私が通った大学のお隣の御所が舞台だし、で興味があった。

私自身は国際交流のサークルだったので、特に御所を何周と走らされたこともなく、ESSドラセクのように「あめんぼあかいなあいうえお」なんてやってことはなかった。だから御所Gがどこにあるのかは知らない。
御所は大学の第2キャンパスのような使われ方がされていた。サークルで使うことはなくても年に何度かは丸太町まで御所を歩いて抜けたことはある。

まあ、アジアの学生のアテンドのとき、御所は外国人の団体だとすぐ見学許可が出たので、何度も御所の見学はしたが。右近の桜左近の橘のすぐ前の道を通るのだが、なんせ御所は地味なので香港の学生などは「天皇はこんな質素なところに住んでいたのか」と感心するぐらいで、側室の女性マネキンがいっぱい並んでいる二条城の方が受けるのだ。

大阪から京都に通っていたころはよく歩いたので(年に一度くらいは京都駅から大学まで歩いた。基本、京都はどこでも歩いていける)、出町三角州も徒歩圏。木屋町もなつかしい。

大学の前期試験は夏休み前だった。京都の夏はくそ暑い。試験の後、四条まで繰り出してみた祇園祭の山鉾。夜なのにべたっとTシャツが肌に貼りつく不快感しか覚えていない。

夏の暑いさなか、先輩と回ったサークルのドネーション(寄付)集め。暑いところから冷えた喫茶店に入って飲んだ冷コー(アイスコーヒー)で気分が悪くなり、いまだにアイスコーヒーは飲めない。

学生時代に見た左大文字。写真や作文や交響楽など「なんかクリエイティブ」なもので応募して当選してサイパンに行った学生仲間と、リーダー格だった作詞家のお宅に押しかけて屋上で見た。東京から鈍行できた数人と合流して金閣寺近くまで歩いて行ったのだ。

大文字にに近すぎて、たいまつの炎がくっきりと見えた。
探検部所属で、アルバイトをしてはふらりとアジア放浪の旅に出る仲間が
「ただでさえお盆ってお先祖さんが帰ってきている時期なのに、これだけ多くの送り火を焚いてパワーが集まっている。みなで祈れば、呼び出せるかもしれない」と言い出し、10人くらいいた全員で手をつないで車座に座って、目をつぶって一心に祈った。「ほんまになんかでてきたらどうしよう?」と不安に思い出したころ、がちゃっという大きい音にみな飛び上がった。
作詞家先生に「お前ら何やっとるんや?」と一喝され、ちょっとほっとして散会となった。

その彼は数年後、自宅の風呂で溺死した。ボルネオの洞窟探検にいく前夜であったという。当時名古屋で働いていた私は、香港の友人が遊びに来ていて一緒に下呂温泉と高山に行き、濁り酒の一升瓶を買って帰った。家に帰って床に一升瓶を置くと、すこんと割れてしまった。別に乱暴に置いたわけではないのに。その夜、サイパンに行った仲間から電話があり訃報が伝えられた。彼も別のサイパンの仲間に電話をしたら彼女が訪米中で不在で、彼女の母親から訃報を聞いたのだという。
親の死に目にもあえぬと思っていた仕事についていたのに、お通夜はちょうどシフトの切れ目。「酒が飲みたかったのか?」とヒノキの樽型のおちょこにお酒を入れて供えて通夜に旅立った。戻ると、おちょこの酒は蒸発してやいた…。

読みながら、京都時代や、その後のそんなことを思い出していた。

京都なら、あるかもしれない。

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