Space #4 ミュージックビデオの現場
(ジェジュンのエッセイ「Space Seoul」を勉強がてら訳してみました)
スペース1レコーディングルーム、スペース7舞台、スペース5練習室と進んで、次はMV撮影ですな…。
大声の挨拶から始め、現場に到着したことを人々に知らせる。来るときにずっと撮影前に準備しなければならない物、撮影しながら覚えておかなければならないことなどを整理するために頭の中が奔走していた。実際に現場に到着してみると心が落ち着く。一緒に作業をするスタッフたちの顔を見て根拠のない自信感が生まれてくるためだ。
セットや照明、カメラなど撮影現場を満たす機材のセッティングが仕上がるところだ。スタッフたちの動きが奔走している。この姿はいつも視線を奪われる風景だ。現場経験が豊富なベテランたちは特有の風格あふれる雰囲気を漂わせる。演出家の指示や説明がなくても、現在の手順で自分が何をしなければいけないか正確にわかっているように見える。すべての行動で不必要な余分なものがない。表情は多少、無関心なように見えるが自分の装備や機材の前では鋭敏さが習慣のように身についている。小さくても機会があればすぐに見つけて掴み取る。粗雑に見えるがひとつひとつの行動がみな繊細だ。雪のような埃が付き、汗に濡れたTシャツ一枚だけをひっかけたベテランスタッフたちには、言葉で説明するのが難しい風格がある。さかんに現場の仕事を学んでいるスタッフたちも目に入る。何年か後には彼らも監督さんと呼ばれ、同じオーラを漂わせるようになる姿を想像してしまった。彼らをぼんやりとながめて「かっこいい」と独り言がぽろりと飛び出した。
ミュージックビデオの撮影はたいてい一日、長くて一日と4分の1日で、普通、二日を超えることはない。同じ撮影現場でもドラマや映画とはここが大きく違う。一番大きい違いは規模だろうが、もっと大きく感じるのは現場のスタッフたちの雰囲気だ。単発的に進行するというミュージックビデオの特性上、長く呼吸を合わせてきたメンバーではない。ただし、カメラ監督、照明監督、美術監督など主要スタッフたちは、お互いどこかで一度くらいは一緒に作業をした経験がある場合が多少はある。彼らが昔の記憶の欠片をお互いにひとつずつ取り出してすり合わせながらささやかな会話を続けていく姿はいつ見ても微笑ましい。一緒にするのは初めてという作業である場合もお互いぎこちなさはない。同じ業界の人間だという連帯感と各自の領域に対する基本的な尊重が相手に対する言葉や行動にそのまま表れている。必ずいつかまた出会う人たちだからだ。私もやはり同じニュアンスで人々と挨拶を交わし会話にそれとなく仲間入りしたりする。
ミュージックビデオで一番大切なことは歌をどれだけ表現できるかだ。企画を入念に検討、修正し、時には最初から全部覆してまた最初から苦労する険しい過程を耐えるのも、みなそのためだ。二番目に重要なことには、とても個人的な理由がある。私はどれだけ新しい方式の作業であるかに惹かれる。今までしてみたことがないことなら試してみることを優先する。
ドラマや映画は監督と作家の作品だ。そこに出演する俳優は監督の道具として最善を尽くし任された演技に忠実であればいい。ストーリーは当然のこと、画面のトーンや編集スタイルなど何一つ、カメラの前に立っている俳優が関与することではない。しかしミュージックビデオは違うのだ。これは私の歌のために作る作品なので私が細かいディテールひとつまで選択することができるのだ。新しいことをやってみる機会を選択しない理由がない。冗談のようにする話だが、これまで19年の間、ありとあらゆることを皆やってみたので、顔をしかめるような気分になる作業方式がそれほど多くない。私にとって新しいことなら他の人たちにとっても新鮮に感じられる可能性が大きい。
1枚のアルバムで不足する多様なプロダクションは、それぞれの専門性にしたがって徹底的に分業化されて動く。ミュージックビデオも同じだ。ミュージックビデオの演出家は歌を映像に翻訳する過程で自分の創造性を投影する。このとき、その解釈は、歌が本来持っている本質と当然連携するし、他のプロダクションのトーンやマナーから外れてはいけない。これらを能動的にコントロールできる人間はアーティストだけだ。例を上げるとミュージックビデオの撮影現場にいるスタッフたちは、アルバム「BORN GENE」のジャケット写真がどういうコンセプトで撮影されたのか、どんな衣装を着て、どんな表情をしているのか知らない。アルバム発売に合わせて進行している公園の舞台デザインはどんなものなのか、どんな演出がされるのか、私がどんなパフォーマンスを見せるのかも、ここにいる人たちは知ることができない。アルバム全体でタイトル曲の他にどんな曲が収録されているいるのか、やはり当然ながら知らない。他のパートにいる人達も、お互い同じだ。全体を見渡している人間は私ただ一人なのだ。なぜこの画面で青色を抜かなければいけないのか、衣装はこれより明るいトーンでなければいけないのか、正確に知っていて指示できるのは私しかいないのだ。新しいアルバムと共に行われるすべてこのイベントと作業物が、ひとつの有機的な統一性を持つことはアーティストにとってものすごく重要なことなのだ。あわせて、このすべてのことを見渡しながらバランスを判断しなければならない見識や責任感がアーティスト一人にさらに強く求められる。各分野の専門家レベル、あるいはそれ以上でなければならない。エンタテイメント産業が資本力と規模を供えて始まった後に生まれた、一番大きい変化のひとつだと思う。ミュージックビデオの撮影現場で今日一日、頭の中が賑やかだったのは無駄に大げさな訳ではない。本当なのだ。
ot若いスタッテュの一人から現場のセッティングがみな終わったと連絡が飛び込んできた。本格的な撮影が始まるのだ。実は今回のアルバムのタイトル曲『NOBODY LIKE YOU』のミュージックビデオの撮影は撮影の日取りが差し迫り、最初に企画したことを諦めるしかなかったのだ。今年の夏、急に雨が多く降ったので野外撮影が不可能になったためだ。どうしようもなくセットで撮影するしか方法がなかった。自然の風光が与える視覚的メッセージの代わりに多彩で象徴的なカラーで歌のストーリーと情緒を表現する今の方向に切り替えた。音と色、動きなど、大きい枠で今回のミュージックビデオ作業が進行していった。避けられない理由で選んだコンセプトだが充分に新しい成果が出たと確信している。
[M/V] 김재중(KIM JAE JOONG) - NOBODY LIKE YOU - YouTube
ミュージックビデオ撮影が面白い理由のひとつは大部分の演技が即興に近いからかもしれない。ミュージックビデオのコンテにはセリフはもちろん、演技に関するどんな地文もない。演出家のキューサインが出されたその時から手をまっすぐ伸ばして、ひとつずつ探していかなければならない。同じシーンをぜんぜん違うやり方で繰り返し表現してみることも可能だ。振り付けやパフォーマンスが決まっているダンスジャンルならちょうどよい絵を予想することができるが、新曲がそういうシステムをTU開くことが難しいロックジャンルなので自由に自然に何かを体で表現しなければならない。歌詞のストーリーと感情も表情に出さなければならない。1テイクごとに演出家と絶え間なく対話を交わしていても、実際に自分がうまくできているかは自分だけがわかっている。ここで興味深いポイントが発生する。ミュージックビデオを撮影する過程で自分を少し客観的に観察できるようになる。ほとんどの場合、カメラの前では確信などというものが生まれることは難しい。そのため、OKやNGは全面的に監督の判断で決まる。キャラクターに没入し、作品全体を読むことができない俳優は、不足なのか、過剰なのか、適切なのかを判断するのは難しい。しかし、ここだけは違う。カメラの前では満足できていたのに、モニターを見るとき不足しているように見える場合がたまに発生する。私の意図と結果の差をリアルタイムで比較しながら自分の表現方法をチェックし、場合によっては限界を確認することもある。
最後のシーンまで撮影が終わった。最後の「カット」サインが出てからだ。本当に面白い撮影だったと思うのは。役に集中し没入していると撮影現場などがどれほど面白いのか忘れてしまいがちだ。すべてが同じ大きさの情熱と同じ深さの愛情で同じ方向を向いている。自分の才能とノウハウ、クリエイティブを次々と打ち出し巨大なフローを一緒に作っているだけだ。一緒に作った楽しさは何かと比べることはできない。
ここは、私のために、私の曲のために作られた場所であるだけに、現場に対する愛情は大きくなる一方だ。みんなといつかまた逢えることを願っている。再び逢ったときに誰でも先にすっと近寄り、以前、私と一緒に作業をしたことがありましたねという言葉をかけて上げることができればいいな。必ず覚えていると約束する。おかげさまで私にとってとても素敵な記憶と作品ひとつが残ったと言ってあげたい。スタッフひとりひとりと目を合わせ挨拶をした後にはじめて、撮影現場を心安らかに後にすることができる。
(続く…かもしれない)
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