児童小説(短編) おとなの味

 ぶあつい、重たいドアを、ユヅキはからだごと、ぶつかるみたいにしておし開けた。頭の上で、カラン、コロンと、そうぞうしい音が鳴った。
 カウベルっていうのだ。
 前に来た時、おじいちゃんから教わった。

「あのぅ。すみません……」
 ユヅキはそう言ったきり、その場でもじもじとした。中に入ったはいいが、そこからどうしていいのかがわからない。
「あら。松本さんのところの」
 よかった。カウンターの中にいたお店の人が、ユヅキに気づいてくれた。
「こんにちは。あの、うちのおじいちゃん来てますか?」
 ほっとしていきおいよく言ったユヅキに、お店のおばさんは、のんびりと首を横にふった。
「モーニングにはいらしたけれど、午後はまだ、みえてないわねぇ。もう、いらっしゃるころだとは思うけど。どうかしら」
「そうですか」
 ユヅキはがっかりした。
 この間おじいちゃんとすわった席に、他のお客さんがいたから、イヤな予感はしていたのだけど。

 その時ユヅキは、おじいちゃんから、ココアをごちそうになったのだった。すばらしくおいしいココアだった。
 こっくりと濃くて、なのにまろやかで。甘さはちょっとひかえめ。べろにも、のどにも、ぜんぜん残ったりせず、するするとおなかに落ちて、ほっこりとユヅキのからだをあたためた。ふだん家で飲んでいる粉っぽいココアとは、ぜんぜん、ちがった。
 おまけにあの時は、注文してすぐから、うっとりするようなすてきなにおいがお店じゅうに広がった。金色のフチどりのカップが運ばれてくるまで、ユヅキは、何度も深こきゅうをしてしまったほどだ。
 ここに来れば、きっとおじいちゃんがいる。それでまた、あれが飲める、そう思ったのに。
 すっかり、あてがはずれてしまった。

「わかりました。さようなら」
 ユヅキはため息をついて、まわれ右をした。
 けれど、重たいドアを前にしたら、急に、気が変わった。
「……やっぱり、ここでおじいちゃんをまってもいいですか?」
 だって外は、すごく寒いのだ。それにとうぶん、家には帰りたくない。
 見たところ、お店はすいている。
 しかもおじいちゃんは、ここの『じょうれんさん』だ。

 ――きっと、『どうぞどうぞ』って言ってくれるよね。
 ユヅキはそう考えていた。
 でも、その予想ははずれた。
「あら。困ったわね」
 お店のおばさんはそう言って、おけしょうでかいた細いまゆを、スイって上げた。
「うちは、お店なのよ。あなたは、お客さんじゃないでしょう?」
 ユヅキはショックを受けた。
 子どもの自分が、おとなにそんなことを言われるだなんて。思ってもみなかったのだ。
 ――おばさんは、冷たい。いじわるな人だ。
 そう思った。

 その後ユヅキは、おばさんとならんで、お皿やカップをあらわされた。
「こっちのは、いいわ。高いものだから、割られたら困るもの」
 水はすごく冷たかったし、おばさんは、そんなことまで言った。ユヅキは、シンデレラになったような気分だった。
 そうして、ひととおりのしごとが終わってからやっと、お客さん用のイスをすすめてもらった。
 けれどそのころには、ユヅキの心はすっかりいじけていた。しかも、おじいちゃんはまだ来ない。
 ――こんなところ、もうぜったいに来ないんだから。
 ユヅキが、ぬれてしまった服のそでを引っぱりながら、そうちかった時だ。
「おつかれさま」
 コトン、とマグカップが置かれた。
 カップは、さっきユヅキがあらったのと同じものだった。つまり、高くない、じょうぶなカップ。そこからほのかな湯気と、それから、いいにおいが立ちのぼっていた。でも、ココアではない。
「コーヒーよ。うちの店の特製ブレンド」
「……コーヒーは、まだ飲んじゃだめって、お母さんが」
 ユヅキがかたい声でそう言うと、おばさんはかたをすくめた。細いまゆがまた、スイと上がる。
「あら、そう。それはざんねんね」

「……ただいま」
 ユヅキが家に帰ると、ママは、ソファのところにいた。
「おかえり」
 なんだか、ぐったりしている。「今やっと、萌(もえ)花(か)がねたところ」
 ――また、萌花。
 夏の終わりに萌花が生まれてからというもの、お母さんは、いつだって萌花のことばかりだ。ユヅキは、のどのおくがじんわりと苦くなった。コーヒーは飲んでいないのに。
 ママが聞く。
「どこに行っていたの? 行き先も言わないで」

 ユヅキは、眠ったばかりだという萌花のねがおを見下ろして、ツンと言った。
「ないしょ」
 そうしてひとつ、甘ったるいにおいのゲップをした。

〈終わり〉

奇特な貴方には、この先幸運が雨あられと降り注ぐでしょう!