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代数系入門(山下翔)

 二〇一一年のことで、まず思い出すのは成人式です。夜の会だけは出ようと、電車と船を乗り継いで地元へ向かいました。小さな高速船です。波がたっていて、客室は後ろ側だけが開放されていました。

 次の日はバイトでした。朝まで飲んでそのまま帰ろうと船は往復券を買ったのだった――いま思い出しました。手帳と松坂和夫『代数系入門』を突っ込んだだけの紙袋を手に提げ、海辺の国道をふらふらとホテルまで向かいます。鼠色の雲が、空の低いところまで覆っていました。大学行って数学にのめりこんで、もう地元には帰らない、おまえらとは関係ない、そんな顔だったとおもいます。いやな顔です。でも、同窓会「だけ」なのも、次の日バイトを入れたのも「紙袋」なのも「松坂和夫」なのも、振り返るまでもなく全てポーズでしょう。それがどうにかとることのできた地元との距離であり、そこで暮らした十一年間、「ここ」ではないどこかを夢想しつづけた自分へのせいいっぱいの誠実さだったのだとおもいます。ひとに見せるためのわかりやすい「物語」で隙間なく自身を覆いながら、その内側では「いま」「ここ」でない〈本当の〉自分を悶々として夢想する。それがいっそう「物語」を堅くも厚くもしていきながら〈「おまえら」にはわからない〉、でもどこにもいない、虚像を大きくしていったのです。西村さんの「物語」を読みながら、そんなことを考えました。

 夜は中学の同窓会で、卒業以来五年ぶりに見る顔も多く、結局なにを話したのかまったく覚えていません。地元のことばが体にもどってくるまで極力口を開かず、とにかく酒を飲んでいたようにおもいます。目が覚めたら病院にいました。急性アルコール中毒です。ベッドには柵がついていて、低い天井が眼前に迫るようでした。夜中あばれて床に何度も落ちたそうです。やってしまった――伊集院静『なぎさホテル』にはまだ出会っていませんでしたが、そんなとき、思い出す一冊です。行くあてのない若者が、抑えようのない情動とたたかいながら、あるいはそれをどうすることもできず、しかしなんとかその状況を抜け出そうともがく七年余りが記されています。「ここ」ではないどこかの、「おまえら」とはちがう、「不完全」ではない大人の姿——そんな夢想は、その後いくどもうち破られます。田丸さんのいう「不完全」ということをおもいます。

 伊集院静の文章は、痛々しく切ないその内容もさることながら、ところどころに差しはさまれる情景描写に息をのむようなところがあります。臆面もなく、というか、そこだけ妙に時間の流れがゆるやかで、描写はつぶさで不思議な感触があります。去年読んだトルーマン・カポーティのいくつかの小説——たとえば「感謝祭の客」「クリスマスの日」「ティファニーで朝食を」にも似た印象をもちました。いずれも村上春樹の訳で、前二つは『誕生日の子どもたち』という作品集で読みました。状況説明をこえてときに詩的な比喩と韻律のたたみかけが、こころをとらえます。そこには「物語」を剥がされた「不完全」が、きらきらとひかって見えるようです。

 『代数系入門』を、もういちど少しずつ読み直してみようとおもいます。わたしはわたしの数学をやるしかないのです。

建物の陰より道へ出づるとき風のこたへを感じつつ居り

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