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短歌をはじめたころ(山崎聡子)

 短歌を書きはじめたのは、大学二年生のとき。水原紫苑さんが受け持っていた、創作実習の授業がきっかけだった。当時、水原さんの名前もシラバスではじめて知ったぐらい短歌とは無縁だったのだけれど、それでもその授業を取ろうと決めたのは、高校の授業で書いた短歌が意外なほど褒められた、といううっすらとした記憶があったからだ。
 その歌は、「床板の割れ目に西瓜の種落としおおきくなれよとひそかに願う」というもので、確か、学校が発行してる文芸誌にも載ったと思う。受験が上手くいかなくて、母親から「自分の母校に行ってほしかった」と繰り返し言われていたわたしにとって、「あの子のことは諦めてる」と友人と笑いながら電話をしてるのをぼんやりと聞いていたわたしにとって、その出来事は自分を照らす小さな光のように感じられた。そのときの気持ちを、シラバスに書かれた簡素な授業案内を読んでいるうちに思い出したのだ。

 水原さんは、白いシャツにジーンズ姿であらわれて、黒板に、まずは自分の歌を書いた。
宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のように響きあふ子ら
菜の花の黄溢れたりゆふぐれの素焼きの壺に処女のからだに

 その瞬間、おおげさではなく、出会った、という感じがあった。そして、たぶん、多くの学生たちにとって、水原さんの授業はそういったたぐいのものだったと思う。授業では、学生たちが書いてきた詠草から二三首を水原さんが黒板に書き、わたしたちに意見を求めた。
 水原さんは、「この歌は媚びている」ときっぱりと言った。いい歌が出てくると、「この歌、いいね」「かっこいいね」と、ころころと笑いながら言った。何を教わったか、というのは実は断片的にしか覚えていない。けれど、水原さんの言葉は、正直で、フラットで、嘘が一ミリも混じっていなかった。心の底まで見破られる感じがあった。自分にとってのほんとうを書くこと。借り物の言葉ではいけないこと。そういったことのすべてを水原さんの言葉と態度がびりびりするほどに伝えていた。人生で、わたしはたぶん、人のことを師と思ったことはほとんどないけれど、そして、おそらく水原さんにとっては多くの学生の一人にしかすぎなかったけれど、人生を変えた出会いとして鮮やかに思い出すのは、水原さんのあの授業だったと断言できる。

 半年の授業の最後、ゲストに『短歌という爆弾』を出したばかりの穂村さんがやってきて、みんなで高田馬場の居酒屋に行った。穂村さんを取り囲んだ女の子たちがレンズのない眼鏡を見せてもらっているのを、わたしは隣のテーブルから遠巻きに見ていた。出会った、という感覚はそのときも続いていて、隣の席の眼鏡の男の子がスピッツの歌詞について話すのを、不思議に高揚した気持ちで聞いていた。その人懐っこい感じの子は五島君、という名前で「早稲田短歌会」というサークルに入っているらしかった。五島君に連絡先を教えてもらって、その日は、中野駅から自宅のあった高円寺までを歩いて帰った。
 数週間後、短歌を書き溜めていたスケッチブックを持って、早稲田短歌会の部室に行った。そのときから、すべてがいまに繋がっている。

中央線のオレンジ色が目のなかに火として色をつけていた日々

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