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物語にならないことを(山崎聡子)

――二巡目「私の好きな本」

「聡子さん、よく、部室の前で梶井基次郎読んでましたよね」

 去年の夏、娘を抱いて近所をふらふらしていたら、演劇部の後輩の菅原くんと会った。彼は、平田オリザの青年団を経て、いまはOiBokkeShiという「老いと演劇」をテーマとした演劇プロジェクトを主宰している。という彼の経歴をあらかじめ知っていたのは、この数年、彼の変わらない人なつっこい笑顔をテレビや雑誌で目にすることが何度かあったからだ。その日は、演劇祭で上演する路上劇の稽古をしていて、偶然にも「二十年ぶりに知り合いに再会する」シーンの演出をつけていたのだという。「久しぶりに会うと人はこんな顔になります」と役者さんたちに言うので、わたしは照れた。

 「私の好きな本」というテーマで思い出したのは、そのとき菅原くんに言われた梶井基次郎のことだ。たしかに、わたしには、高校時代のある時期、梶井基次郎を死ぬほど読んでいたことがある。というと、めちゃくちゃ文学少女のようだが、わたしは暇さえあれば読書をしているというタイプの高校生ではなかったし、そのころにもっと好きだったのは、吉田秋生の漫画やJudy and Maryや椎名林檎や、がちゃがちゃとした表紙に文字がびっしりと書き込まれたティーン誌だった。それなのに、教科書に載っていた「檸檬」に惹かれて、ちくま日本文学全集の『梶井基次郎』を買ったのだ。この本の奥付には1999年6月とあるから、たぶん、高校三年生の夏だったのだと思う。「檸檬」を「桜の樹の下には」を「Kの昇天」を「城のある町にて」を、わたしは繰り返し読んだ。その、ひと夏の個人的なブームが誰かに記憶されていたということが、ふしぎで、嬉しかった。

 短歌を知る前のそのとき、梶井の何に惹かれていたのかというと、物語になる前の説明できない感覚がそこにあったからだと思う。「なぜだかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている」「二銭や三銭のもの――といって贅沢なもの。美しいもの――といって無気力な私の触覚にむしろ媚びてくるもの」こういった「檸檬」の一節は暗記するほどだったし、「手品と花火」にでてくる「花は」「Flora.」という夢のうわごとのような会話部分にさしかかると心がひしひしと高揚した。梶井の文章は、生々しいまでの体感や匂いや音や色を、じぶん自身が本当に感じているかのように誰かにそっくり手渡してくる。「Kの昇天」のなかに、後に溺死するKという男が執拗に自分の影を凝視する場面がある。月夜になると影が彼自身の人格を持ちはじめ、月に向かって昇天していくのだと。この非論理性、なのに、心底納得してしまうその感じは、わたしが短歌でやりたいと願って、なかなか出来ずにいることなのだ。そう考えると、たぶん、わたしが一番影響を受けた作家は梶井なのだと思う。

 数日後、わたしは、菅原くんの路上劇の観客として、自分の住む町を歩いた。その劇は、認知症のおじいさんが町を徘徊するお話で、違う誰かの視点で見るわたしの町はときに恐ろしく、美しかった。そして、部室の隅でひっそりとほほ笑んでいた菅原くんがそんなふうに世界を見ていたことを初めて知ったのだ。

  わたしの名前を夕闇と呼ぶひとがいてカンナの咲いた庭を横切る

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