一行の話(西村曜)

――一巡目「短歌と私」

 田丸さんの「短歌をはじめた頃」駆け出していくかんじがいいなとおもった。出会ってしまったらもう、駆け出していくしかない。それしかないと感じたら、なりふりかまわず駆けていくしかない。

 中高と不登校児だったわたしは、高卒認定試験を経て京都の某私立美大へ入学した。美大には、わたしとおなじように絵を描くのがすきで、そしてどこか生きづらい女の子がたくさんいた。それだけでもずいぶんと救われたのだけど、いままでが不登校をしていたので大学に通うのはつらかった。四年間の諸々の課題も完成させられた物のほうが少ない。それでも、ここがさいごの砦なんだ、というおもいはつよかった。いままで人とおなじ道を歩めなかったけど、ここを四年で卒業して、就職して「社会人」としてふつうの人生をおくるんだ。だから本業の課題もこなせないくせに、就職活動に関するゼミ活動には熱心に参加したりしていた。

 就職活動解禁は二〇一二年十二月。就職ができないまま卒業しないために留年する「就職留年」はては「就活自殺」なる言葉も聞かれていた。わたしは髪を黒色にし、慣れないパンプスを履いて、地元から関東まで駆け回った。エントリーシートをおぼえていられないほど書き、がんばった。がんばったとおもいたい。でもわたしが美大で成し遂げたことは何もない。植物には詳しくないけれど、中身が洞の木はほかの木々よりもかんたんに倒れてしまうのではないかな。そんなふうにしてわたしは倒れて、精神病院に入院した。退院したのは大学四年の八月の末。同級生は内定式の準備も終えているころだった。

 就職はできなかった。精神病のおまけを抱えて、わたしは何にもなれないまま大学を卒業した。足掻くようにはじめたバイトは試用期間中にクビになり、それからは家でひたすら眠るだけの日々。実家のリビングで母と手をつないで眠った。自分が何を仕出かすかわからないので一人の部屋で一人で眠ることはできなかった。

 寝てばかりいるのはやっぱりよくない。絵は描けなくとも、本もすきだったでしょう、本を読んでみたら。そう言ったのは母だったかそれとも主治医だったかは忘れたが、わたしは”がんばって”本を読むことにした。苦行だった。とりあえずすきな作家の小説を読もうとしても、一行を繰り返しくりかえし読んで、それでも意味がとれない。割れたコップで水を掬うように、意味はほとんど流れていってしまう。それでもやはりがんばった。がんばったとおもいたい。がんばって、やはりわたしはほとほと疲れた。

 気分転換に出かけた図書館で(それでも行くところは図書館しかない)ふだんは見ない書棚をのぞいた。たわむれにまぶしい黄色の背表紙の本を手に取った。めずらしい布張りの本だ。それが歌集と呼ばれるものだということも知らなかった。

  さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから
  /笹井宏之『えーえんとくちから』

 それだけだった。わたしの割れたコップにその一行が満ちた。泣いたりはしなかったし、もしかしたら感動すらしていなかった。「これだ」とおもっただけだ。おもったらもう駆けていくしかない。その年、二〇一五年の六月一日からわたしは短歌を詠みはじめた。さいごに、わたしがはじめて詠んだ短歌を。

  この国のすべての在来線の席きみの居場所はいくらでもある

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