高島裕インタビュー(前編)

 一時、結社「未来」から離れていた歌人の高島裕さんが再び入会したことが大きな話題となった二〇一七年に、同じく「未来」所属の歌人・小説家の錦見映理子さんによるインタビューを行いました。「未来」二〇一七年五月号に掲載したものに、未公開部分を加えた完全版でお届けします。

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「古い言葉の力に目覚めた」

――未来をやめて再入会するまでどれぐらいの期間があったのでしょうか。
高島 やめたのが二〇〇二年の春で、再入会したのが二〇一六年の十二月号ですね。十四年くらいたっていました。

――その十四年の間に私は入会しましたから、高島さんと「未来」でご一緒するのは今回が初めてです。十四年前までは超結社の歌会や歌集の批評会などでよくお会いしていましたが。高島さんが短歌を始められたのは一九九五年ですね。私もそれくらいに始めたんですよ。
 一九九五年というのは大変な年で、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件がありました。日経連「新時代の『日本的経営』」が出たのもその年ですね。私は富山にいた、十代の頃から東京を中心とした音楽とか漫画とかのサブカルチャーの輝きに憧れていて、いつかそこに身を置きたいと思っていたんですよ。でも、自分の場合は「言葉」なのかなと思って、大学生の時に小説を書いて新人賞に応募したこともありました。二十代の中頃に、私生活で破婚を経験して、行き場を失った形で初めて東京に住んだんです。念願の東京暮らしでしたが、そういう形で住み始めたので、夢見ていたようなものではなかったです。東京に移って、一ヶ月くらいで地下鉄サリン事件が起こりました。

――それは衝撃的ですよね。
 上京して、そういう時代の変わり目に自分が立ち会ったというのに意味がありますよね。塾の講師をしていましたが、その年のうちにクビになりました。今の時代は、人生に先が見えないということをみんなが現実として受け止めていますが、その当時は、学校を出て就職して年数が経てば自然に給料が上がって、結婚して、子供ができて、っていうレールがまだイメージできていました。それが、結婚に失敗して、解雇されて、まったく見通しが立たないということに初めて直面したんです。その日々の中で短歌に出会いました。

――『セレクション歌人 高島裕集』の略歴には「ごく自然な流れで短歌に出会う」とあります。
 自分の身に起きていることが納得できない中で、生まれて初めて文学というものを本当に必要としたんですね。まず読んだのが、夏目漱石の夫婦関係を主題にした『それから』『門』『明暗』あたり。次に萩原朔太郎です。高校のときも読んでいて、当時は『月に吠える』とか、初期の実験的でモダンな作品に惹かれていました。でも、もう一回朔太郎に出会い直してからは、後期の『氷島』の文語に回帰していくところに惹かれましたね。朔太郎もちょうど破婚があって、そういう心の痛みを日本の古い言葉で表現した時に力を持つということを感じたんです。奥さんに逃げられて、寂しくて酒に溺れてるっていうことを話し言葉で書いたら、情けなくて正視できない感じになるけども、文語で書いたらなんかかっこいいわけ。美的で不思議な力があると感じたんです。それで、自分は何をやったらいいんだろうと模索しているうちに、自然に短歌という伝統詩形に惹かれていきました。両親が高齢で、古いものに対する志向が強くて、短歌のリズムや、漂っている風雅の世界に親しい思いを抱いて育ってきたので、再発見したという感じです。二十代の終わり頃になって、人生上の蹉跌があるなかで掴み取ったのが、自分でも意外だったけど短歌という様式だったんです。

――高島さんはお父様が五十一歳のときのお子さんなんですね。お母様が三十九歳で。私は父が三十一歳のときの子どもなので二十歳の差がある。同じ年齢だけれど、高島さんにはひと世代上の素養がある印象です。お父様は実際に戦地に行かれていますね。
 マレーシアに行っています。戦闘といえるものはなかったようですが、食べる物がなくなって孤立したそうです。ジャングルで蛇を捕まえて食べたとか、マラリアにかかったとか、そういう話は何回も聞きましたね。小さいときは、それを冒険譚のように聞いていたけども、今考えてみると、それって生死の境をさまようような話で、壮絶な体験だったんじゃないかと。あと覚えているのは、戦闘がなかったので、戦友と相撲を取っていたら間違えて骨を折ってしまったらしいんですね。

――えー(笑)。
 母は十五歳で学徒動員されて飛行機のベアリングを作ったりしていて、富山大空襲に遭ったり、兄が戦死したりっていう戦争体験はあったんですが、父のその相撲の話を聞いて笑っていたんです。そうしたら父が憮然として「戦争は(派手な戦闘ではなくて)補給なんだ、補給がすべてを決めるんだ」と。それを考えると、安保法とかで後方支援は戦争に参加することではない、とか言っているのは、戦争をわかっていない人の話だと思いますよ。

――戦争の話を聞いているのは高島さんにとって影響が強いんだなと感じます。
 小学生のとき「親が外国に行ったことがあればそれについて調べる」という課題が出たんです。みんな、親がアメリカに旅行に行ったとか仕事で行ったとかそういう話をしているなか、私が「父はマレーシアに戦争に行きました」っていうと大笑いされて(笑)。私の世代でも笑われるようなギャップがあったんですね。小さい頃から戦前戦中の話を聞いているので、今は失ってしまった古い価値観のよさ、美質みたいなものを私は受け継いでいると思います。

「認めてもらえる世界があるんだ」

――そうやって短歌と出会って、「未来」に入るのはわりとすぐですよね。
 「未来」に入会したのが一九九六年の春先でした。はじめは現代短歌のことなんて全然知らなくて、唯一知っていたのは俵万智さん。あとは寺山修司の映画「田園に死す」の中に短歌が出てくるじゃないですか。学生時代に見て「短歌でこんなこともできるんだ」って衝撃を受けた覚えもあります。それで、短歌を作って先輩に見せたら「全然ダメだ」と(笑)。「高島君、もうちょっと勉強したほうがいいよ。岡井隆って知ってるかい」って言われて。それで、当時、渋谷西武にあった「ぽえむぱろうる」っていう、詩歌関係の本が置いてあった店に行って国文社の『岡井隆歌集』を買いました。最初に心に入ってきたのは『禁忌と好色』ですね。お父さんとの別れ、オイディプス的な匂いのする歌集。それから『土地よ、痛みを負え』とか『朝狩』とか前衛短歌の頃の歌集ですね。「朝狩りにいまたつらしも拠点いくつふかい朝から狩りいだすべく」を電車を待ちながら思い浮かべて、一人で鳥肌を立てていたのを覚えています。そんな岡井さんが「未来」というところにいらっしゃる、そこへ入りたいなと。「未来」はアララギ系らしいので、正岡子規とか斎藤茂吉とかの本を買って勉強したんです。入会にはテストがあるんじゃないかと思ったんですね(笑)。それで投稿したんだけども、いっこうに載らないんですよ。これは、私が生意気な歌を作ったからかなと。じゃあ次は素直でわかりやすい、ノスタルジックな短歌だって送ったら、その生意気な歌が載って。あ、三ヶ月先に載るのかと(笑)。

――(笑)。
 そうしたら、岡井さんが選歌後記に僕のことを書いてくれて。あれはびっくりしたし嬉しかったですね。私生活上で、自分はだめでまったく価値がない人間だって思っていたのに認めてもらったっていう。

――一九九六年七月号ですね。「商品としてのわれいま値踏みされつつ春よ春水瓶みたせ」「不意撃ちの一言なべて少女とは cruelty の代名詞――とよ」などが載っています。
 これは第一歌集の『旧制度』(アンシャン・レジーム)にも入っています。

――もうすでにご自分の文体ですよね。
 サブカルチャーに憧れていた部分と、父や母からの受け継いだ昔からの価値観が無理矢理同居しているから、ある人には注目してもらえたのかなとは思います。

――第一歌集に「この若者が、暗い眸をして、わたしの前にあらはれたのは、ついこの間のやうに思へる。」という岡井さんの解説があります。第一歌集の巻頭歌=初めて「未来」に載った歌ということですよね。
 習作期はありましたけどね。一九九五年七月から歌を始めて、「未来」に入会するまでは角川の『短歌』の公募短歌館に送っていました。浜田康敬さんに特選に選んでいただいたりして。

――「ふるさとの駅に降り立つ夜の九時昨日(きのう)の九時の渋谷との距離」ですね。
 これは初めて送った歌で、いきなり特選になったんですよ。これも嬉しかった。認めてもらえる世界があるんだと。

――すでにふるさとと東京という対比が出てきていますね。偶然なんですが、私も公募短歌館に送っていて、浜田さんに採ってもらった歌が初めて活字になったんですよ。高島さんの歌と同じページに私の歌も載っています。
 ああ、錦見さん、いたかもしれないね。今、活躍している人が結構いた。

――高島さんの短歌ってロマンティックなのが多いですよね。ふるさとを詠んだ歌がすごく美しくてうっとりします。
 「未来」で認めてもらって何年間か育ててもらったんですけど、やめることになったのも、それと関係していると思っているんです。自分が短歌をやっていることの根拠を突き詰めていくと「懐かしさ」「美しさ」というところに純化していくんですよ。最初の頃は都市的な猥雑さを歌にしていましたけど、そのうち、そういうものを忌むようになって「伝統詩としての短歌」というところに自分の根拠を求めるようになったんです。第四歌集の『薄明薄暮集』の頃ですね、部立になっていて、和歌の風雅の世界に強く憧れる、様式先行の歌集ができ上がっていきました。

――高島さんがまだ東京にいらした頃に「首都の会」という歌会で、毎月一回お会いするようになったんですね。そこで、高島さんが千葉聡さんと「最近、古今集が面白くて」「あれはいいよね~」って盛り上がってたんです。千葉さんも同年代ですよね。私もその「いいよね~」に入りたいけど、ちょっと入れないよなって。こういう歌集を作りたいっていうのは東京にいた頃から思っていたんですか。
 部立の歌集を作ることは随分前から計画していましたね。最終的には、表現としてはまったく魅力がないもの、和歌の美的パターンをなぞるだけのものが一番いいんだというようなことまで思ってみたり。

――そうなんですか。
 保田與重郎の影響があると思うんですどね。俺が俺がっていう、自我の表現欲求から離れたいなと思っていました。

――歌集の説明をすると『旧制度』が第一歌集で第二歌集が『嬬問ひ』、第三歌集が『雨を聴く』という百パーセント恋愛の歌集が出て、それで帰郷されるんですよね。ふるさとにお帰りになって二〇〇七年に『薄明薄暮集』が出ます。これが出家みたいな歌集なんですよ。すごくきれいなところにひとりで行かれた感じ。雪があって、家がぽつんとあって、ほとんど家具がない部屋に机が置かれていて、そこに座って歌を書いている人っていうイメージなんです。
 そういう世界があるっていうことを提示したかったんですよね。この歌集では東北の、一関市にある釣山公園というところに行った時に、きれいな水に手を浸けたっていう歌を作ったんですが……。

――「山の井ゆ溢るる水に手を浸けて澄みたるもののあるを確かむ」ですね。私はその前にある「この町で道譲らるること多し 敗者こそつね永遠なる勝者」が好きです。こういう思想っていいなって思いますね。
 歴史上でも個人的なことでもいいんですが、敗者や、破れて打ち捨てられてしまった中に、あるいは顧みられなくなったものの中に、かけがえのない美質が存在するというふうに思います。

――そのあと「恋」という部立がありますね。修行僧みたい、と思いながら読んでいると「恋」になったら突然感じが変わります。片恋の歌がずっと並んでいて、ものすごく情熱的なんです。
 その歌集については黒瀬珂瀾君が同人誌の『sai』で批判を含めて論じてくれました。様式的できれいな世界を提示してはいるんですけど、今を生きている以上、そのリアリティを消し去ることはできないですよね。本当は消し去りたいという理想はあったんですけど、そこまではできなかったです。

――でも、そのリアリティがあるから高島裕の歌集になっているなって思います。高島さんの中では、歌=ふるさと=母、母=女=恋愛っていうふうに全部同じで、全部重要っていう印象なんです。『嬬問ひ』にある「残業ののちの霖雨をひとり行く濡れつつ夜の花に会ふため」という歌、この「花」がただの花じゃない感じがします。自分の心の一番重要なものに会うという感じ。どの歌にも性愛とか、恋愛の香りがするっていうのが魅力なんですけど、『雨を聴く』は全部が恋愛の歌で、そういう歌集はあまり見たことがないですよね。しかも男性で。
 岡井さんの『E/T』はあるけどね。

――岡井さんは例外なんですけど(笑)。岡井さん以外にはないんじゃないですか。
 やっぱり、私は岡井さんの弟子だっていうことですよね。岡井さんから学んだことは絶大だと思います。恋愛や性と、社会の制度とかがリンクしていく感覚っていうのは、岡井さんの歌を読み込むなかで体得していった部分はあると思います。

(後編へ続く)

高島裕(たかしまゆたか)●プロフィール
一九六七年富山県生まれ。一九九六年「未来短歌会」入会。一九九七年度「未来年間賞」受賞。一九九八年「首都赤変」にて短歌研究新人賞候補。二〇〇〇年第一歌集『旧制度』刊行。同歌集にて「ながらみ書房出版賞」受賞。二〇〇二年第二歌集『嬬問ひ』刊行。同年「未来短歌会」を退会する。二〇〇三年第三歌集『雨を聴く』、二〇〇七年第四歌集『薄明薄暮集』、二〇一〇年散文集『廃墟からの祈り』刊行。二〇一二年第五歌集『饕餮の家』刊行。同歌集にて寺山修司短歌賞受賞。二〇一六年「未来短歌会」に再入会。二〇二〇年六月より選者に就任する。富山県在住。

錦見映理子(にしきみえりこ)●プロフィール
一九六八年東京都生まれ。一九九七年「開放区」に参加。二〇〇三年第一歌集『ガーデニア・ガーデン』刊行。二〇〇七年「未来短歌会」入会。二〇一八年小説『リトルガールズ』で太宰治賞受賞、同年末刊行。同年エッセイ集『めくるめく短歌たち』刊行。東京都在住。


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