短歌と私(短歌を始めたころ/道券はな)
「新しい友達」
こんにちは、道券はなです。みなさんの「短歌を始めたころ」のお話、楽しく拝読しております。馬場めぐみさんの、短歌は閉塞した毎日に差す一縷の光として現れやすいというご指摘がとても印象に残りました。また、山崎聡子さんや辺見丹さんのお話から、短歌は人や、今までとは違う感性と出会わせてくれるものだと気づかされました。
私が現代短歌に初めて触れたのは、大学生の頃です。それまでは、作家になりたくて小説を書いていましたが、就活が始まる二十一歳までに新人賞が獲れなければやめようと思っていました。その頃、穂村弘さんのエッセイで現代短歌を知り、自分でも作るようになりました。実作を始めた頃に好きだった歌は、
寄り弁をやさしく直す箸 きみは何でもできるのにここにいる 雪舟えま
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは 堂園昌彦
です。寄り弁を直す箸も、光っている秋茄子も、見慣れた光景です。しかし、それらが下句の心情と結びついた途端、唯一無二の詩として輝き出すところに、短歌の凄みのようなものを感じました。
ただ、こう振り返ってみると、別に私は短歌でなくてもよかったのかもしれません。その時期に出会って凄みを感じたものなら、日本舞踊でもエアロビクスでもよかった。そして、作家になりたくて書いていた小説とは違い、明確な動機もありませんでした。この動機のなさ、こだわりのなさに、私は不安を感じるときがあります。短歌定型と韻律への強いこだわり、そして表現動機がないと、短歌は続けていけないのではと。
たとえば、『更級日記』には、少女が源氏物語に心酔する場面があります。彼女は源氏物語を読みたいがあまり、薬師如来像を造ってもらって祈ることも厭いません。また、物語が手に入った後は、ありがたい経もそっちのけで読みふけります。当時と今とでは文芸に触れることへのハードルの違いもありますが、それを差し引いても、文芸への並々ならぬ情熱とこだわりです。
一方、私には、そこまでのこだわりはありません。なぜ、何のために短歌をやっているのか、自分でもよくわからないからです。それは恐らく、日本舞踊でもエアロビクスでも一緒ですが……
ただ、それでも私は、短歌を長く続けたいと思っています。やっていくうちに、だんだん短歌が好きになってきたからです。詩的飛躍がうつくしくキマった歌を見るとテンションがあがるし、韻律の美しい歌を見るとうっとりして、手帳に書き写します。愛着がわいてきたといってもいい。そしてそれは、歌会や結社でご一緒いただくみなさんのおかげでもあります。小説はずっと一人で書いていたから張り合いがなかったけれど、短歌は月詠や歌会という発表の場を設けていただいたり、そこで出会った方にあたたかい評をいただいたりすることができます。これはとてもありがたいことです。
私はだんだん短歌のことが好きになってきたので、短歌のために自分ができることをしたいし、短歌にも私のことを好きになってほしいです。こう書いてみると、なんだか新しい友達みたいですね。友達も別に、動機やこだわりがあって仲良くなるわけではないから、これでいいのかなあ。
木犀が見慣れた道で咲くようにあなたの印象に残りたい
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