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短歌が/を抱える共同体について(辺見丹)

――三巡目「短歌の過去・現在・未来」

 「短歌は『今ここ』だけではなく、過去や未来までをも知らず知らずのうちに抱き込んでしまう文芸」であり、短歌によって、自分の与り知らないところで未来の誰かと感情の交歓をする可能性がある、という山崎さんの今回のエッセイも、深く共感しながら読んだ。
 考えてみると、歌作に携わっているひとのほとんどが、何らかのきっかけで過去や同時代の歌人の作品に触れて感化され、自分でも作り始めるようになったはずだろうから、山崎さんが指摘したこの短歌の効果にある意味洗礼を受けることによって、私たちは歌人として歩み始めると言えるかも知れない。
 洗礼を受ける、という言い方をしたけれど、表現方法として短歌を選ぶことは、ある共同体に参入することとほとんど等価なのだろうと思う。ここでいう共同体とは、結社や歌会といった、実際に人が集まるものというよりは、和歌以来から蓄積されてきた先行する作品とそのヴァリエーション、定型との格闘の痕跡、技法、読みのコードなど、短歌が短歌としてあることの可能性を担保しているものの総体のことである。山崎さんが書いていた、歌会での北原白秋についてのエピソードのように、歌人はそれぞれに、この総体の一部を可能な範囲で分有していて、ここに個人の経験や技術や感情が加わるかたちで、歌を作ることは成立しているのだと思うし、自分とは別の蓄積を分有した生身の人間と場を共にすることで、歌をより良い仕方で読む可能性が開かれるのだと思う。
 この総体は、語数の制約の多いこの短い詩型に、さまざまな作り方や読み方をもたらすし、ゼロから独力で到達するには困難であるような詩的な真実への到達をバイパスするように働くこともあるけれど、目の前の作品をこの総体との関わりにおいて捉えることを作り手にも読み手にも強いるだろう。だから歌人が歌を作るときにはいつも、この総体の親和力に安らいながらも、そこから遠く離れて自分自身に固有の表現を探求するという緊張関係が働いていると言えるはずだ。もちろん、短歌に限らず、他の芸術表現においても、先行する作品との影響関係や同時代の作品との類似性等は考えられることだとは思うが、短歌ほど密に関わってくるものは、その他の短詩型をのぞけば、あまりないのではないだろうか。
 たとえこの緊張関係に身を置きながら、技法や批評語の創出など、何か新しい領域を掠めたとしても、その成果自体がいずれまたこの総体に還っていき、その豊かさを増していくところは、なんだか空恐ろしい感じけれど、このジャンルの本質的な部分なのではないかという気もする。
 短歌の過去や現在、未来について語る能力は私にはないし、どうあるべきかという意見もさしあたり持っていない。ただ、今思うのは、短歌に流れてきた時間というものを俯瞰的に言うならば、さきに述べたような個別的なものと共同的なものとの往還の繰り返しであり、この蓄積が短歌の持つ固有の財産だろうということだ。
 今に至るまで、多くの論争や対立があったし、この先もあるに違いないが、短歌はそうした結果さえも飲み込んで、自ら豊かになってゆくのではないだろうか、と思っている。

ここまではまだ陸だつたことなどを胸まで浸かつて聴いて忘れる

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