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不完全を生きる(田丸まひる)

――二巡目「私の好きな本」

 「母という生き物は大変ですね。子どもがすべてで、子どもにとってはお母さんが絶対的で」と屈託のない笑顔で言われて、正直戸惑った。

 昨年の初夏に出産をして、たしかにわたしは自分の子どもにとっての母になった。今は子どもと過ごす時間がいちばん長い。しかし、仕事も短歌も、そのほか好きなアイドルの応援をすることも、時間配分は変えながらもそれぞれ大切に思う気持ちは減っていない。子どもの予想外の動きでやりたいことができないと、仕方ないと思いつつ腹が立つこともある。

 母という生き物になったなどと思えなくて、自分は自分のまま、新たに母という役割が加わったのだ(そもそも大半の「父」はそうでしょう?)と考えているわたしは、不完全な母だろうか。そう思った時、ある一文を思い出した。

 「母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ」

 これは、『大奥』や『きのう何食べた?』などで知られる、よしながふみの漫画『愛すべき娘たち』(白泉社)に出てくる一文だ。この作品はオムニバス形式で娘と母、そして母と祖母の関係や、誰かを愛することと誰をも分け隔てなく愛することの違い、愛の授受のままならないことなどが描かれている。

 わたしが特に心惹かれたのは三十歳の娘である雪子と、その母の麻里、そして麻里の母(雪子の祖母)の関係だ。憧れを感じるような状況ではない。麻里は雪子に対して「親だって人間だもの」と平気で八つ当たりをするし、その麻里の母は美しい麻里の外見を決して褒めないどころか、幼少期から「出っ歯」だなどと貶し続けている。そのために麻里は自分の容姿に対して頑なにコンプレックスを抱いている。親の言葉は胸に突き刺さるものだと冷静に考えられる大人になり、自分の子どもには「世界一可愛い」と言えるようになっても、それは変わらない。

 素直で、不器用で、いびつで、不完全な登場人物たち。でも、その不完全さにお互いが気づきながら、認め合いながら、なんとかなっている。女性の物語なので、作中では「女」とされているが、性別に関わらず、人間は不完全だ。

 この作品を読んだ頃にはもう成人していたこともあって、親も周囲の人々も、完全であることなどありえないという実感はあったが、それでも救われた。願わくは、たとえばうちの家族は自己主張が激しすぎる部分があるのかもなどと気づき始めていた十歳くらいの頃に出会って、親もまた不完全な人間の一人だと思っていたかった。そうすれば、もう少し楽に思春期を乗り切れたかもしれない。

 もちろん、人間が不完全であることを理由になんでも許せるわけではない。理不尽やハラスメントに目を背けるつもりもない。でも、自分も含めて誰だって、いつもちゃんとしているなんて難しく、時には失敗することも、つい好きなものを優先してしまうことも、感情的になってしまうことも、誰かに迷惑をかけて助けてもらうことだってある。

 完全であることなんて、母であれば子どもがすべてであることなんて(むしろそれは依存だ)、いつも元気でにこにこしていることなんて、自分にも他のひとにも求める必要はない。もちろん、子どもにも。不完全、それなりに楽しんでいきたい。

 朧月夜に足をひたして眠る子に静かにかけてやる綿毛布

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