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絃楽師トニー

 昔、日比谷市のはずれに年老いた絃楽師が住んでいた。通称『ぎっちょのトニー』と呼ばれているギター弾きである。苦楽をともにしてきたバンドメンバーたちが皆彼岸に渡ってしまい、演奏仕事もほとんど入らなくなって久しい。とはいえ独り身なので、親が遺してくれた賃貸アパートの家賃収入と年金とで、質素ながら日々の暮らしに困ることはなかった。
 ある日のこと、市内の野外音楽堂が閉鎖にともない取り壊されることが発表された。それはかつてデビューしたての頃、生まれて初めて野外演奏をした場所だった。少なからず淋しい気分になっていたところ、そこで開催されるラストライブ・イベントのプロデューサーから電話が入った。バンド時代の旧い知人だった。
「やあトニー、久しぶりだな。生きてるか」
「まあ、ぼちぼちだ」
「いいね。早速だが野音のこと知ってるよね」
「あぁ新聞で見た」
「ほ、新聞とはまたクラシカルだな」
「音声電話も十分アナログだと思うけど」
「ははは。で、ライブのほう出てくれるでしょ?」
「うーんブランクがあるからなあ」
「七日後に本番ちゅう無理くりなスケジュールだけど、そんだけありゃ充分だろ」
「しかし急な話だな」
「そりゃ役所の発表がいきなりだったもんでさ」
「まあいいよ。条件は?」
「おぉ、ありがとう。入れ替え込み20分、ギャラはアゴアシ付き5ってとこだ。じゃ、シクヨロ」
 みえみえの人数合わせだが嫌な感じはしなかった。むしろ最後の舞台にはふさわしい気がした。

       *

 さっそくその日から絃楽師は準備にかかった。愛用のギターの弦を張替え、電気回路のチェックをした。十分強の演奏時間にあわせると候補にあがったのは三曲で、その中から『タイガー・マーダー・ストンプ』を選んだ。ジャンプブルースとロックを融合させた彼のオリジナル・インストで、いちばんのお気に入りだが難易度もまた最高だった。
 最初の二日で両上肢のストレッチや指慣らしを入念におこない、三日目から本格的なおさらいを開始してみて愕然とした。身体機能が予想をこえて、とくに両肘から先は筋力そのものもそうだが、持久性もいちじるしく低下しており、弦の張力に耐えきれずしばしば痙直を起こす有様だった。これでは最後まで弾き通すことなどとうてい無理だ。一瞬、細い弦への変更が頭に浮かんだが即座に打ち消した。このゲージでの音圧でなければ曲が死んでしまう。それくらいなら最初から弾かないほうがましだ。
 思えば四年前の大病以来かろうじて小康状態を維持してきたが、それもいよいよ均衡がくずれはじめ、先日の再診で医師より余命半年を告げられたばかりなのである。死ぬのは寿命だからかまわないが、この期に及んで客が不快になるような演奏をさらすことだけはしたくない。とにかくあと二日頑張ってみて納得がいかなければ事情を伝えて辞退しよう、そう決心した。

 またたくまに五日目となり、彼は頭を抱えていた。完璧にはほど遠い仕上がりで、とくにラス前十小節の超高速パッセージは何度やってもとっちらかってしまう。観念してプロデューサーに連絡しようと端末に手をのばしたとき、眼の前の空間がもやもやっとなって帝釈天が現れた。ここは柴又か。
「めいあぃへうぷよぅさぁ」執事風に語尾を上げてウィンクした。
「はぁ、茶化さないでくださいよ。こっちゃマジやばいんですから」
「まあそうむくれるな。出たいんじゃろ? ライブ」
「ですが、この状態ではとても」伏し目がちに答える。
「弦にこだわりすぎなんじゃよ」
「え?」
「だからさ、それがリミッターになってしもうとるでな、そいつをとっぱらえばお前さんと楽器は完全に接続されて、全てのパワーが解放されるってわけ」
「よくわかりませんが」
「要するに寿命の前借りつうか、まあ、手順は教えるから心配せんでよろしい。それと」、翡翠色のピックを三枚手渡された。
「解放されたら十二小節毎にこれを空に投げるんだ。一枚投げるたびにキュートな天女が舞い降りてくるぞ。わくわくするじゃろ?」

       *

 観客の大半は年下で、意外にも若い世代が多かった。おそらくは次に出演する人気ラップグループが目当てなのだろう。
 入れ替え中の足元は暗く、ケーブルにつまずいたとたん野次が飛んだ。「杖が要るんじゃねえのかあ」どっと笑いが起こる。ほどなくして照明が明転、MC無しでスタートしたが客席のざわめきは続いている。野次飛ばしの兄ちゃんが連れの女とくっちゃべっているのが見えた。仕方がない。ここでは自分の知名度はかぎりなくゼロなのだ。苦笑いしつつ初っぱなのチョーキングに入った。

 調子は悪くなかった。フルボリュームで矢継ぎ早に虎殺しのフレーズを繰り出し、カッティングのエッジも効きまくっていた。客席の温度もぐんぐん上がってきている――でもここまでだった。
 疲労は突然襲ってきた。両腕の関節のすべてが軋み出し、深浅指屈筋群が悲鳴を上げる。三分の二を過ぎたあたりでついに限界が来た。覚悟を決めた。右手ですべての弦をひっつかみ、ブリブリと引きちぎって投げ捨てる。客席が一瞬シン、となった。次の瞬間指板上に顕現した金色の光弦に間髪入れず翡翠のピックを叩きつける。アンプリファイヤが紫の煙を噴き上げて沈黙し、荘厳な天界爆音がダイレクトに全員の脳細胞に乱入・強振させた。人々は両手で耳をおさえて逃げまどうが、音波でないものを防ぎようもなく七転八倒するだけだ。しかも帝釈天が神通力で出入口の扉を塞いでしまっている。
 轟音の中、トニーは一枚目のピックを空中へ投げ上げた。青天の奥から、白鯨の群れのように三百人の巨大天女――身長四メートル・体重五百キログラムくらいか――が舞い降りると、七色の衣をひるがえして踊りだした。さらに曲の進行とともに二枚目、三枚目のピックが投げられ、総勢九百人の天女たちは噎せ返るような甘酸っぱい体臭と熱い汗をまきちらしながら、美しい音色に合わせてぶるんぶるん踊り続けた。観客たちは無差別に蹂躙され、圧死・窒息死・骨折・脱臼・捻挫・脱腸・熱中症等々が続出、堂内は阿鼻叫喚の巷と化した。
 トニーは薄れゆく意識の中、空中に座した帝釈天の微笑に向けて右手親指を上げた。

       *

 天界にもどり籐椅子でくつろいでいる帝釈天に妻のシャチーが訊ねた。
「あなた、どうなすったのですか。嬉しそうに独り笑いなどして」
「わしが左利きの楽師たちと交感しはじめたのは、あのJimiというアメリカ人の前生を終えてからだったのう」
「下界に気になる者でもいましたか」
「あぁ、ほどなくこちらに着くであろうよ」応えると傍らの白いストラトキャスターにいとおしげな視線を向けた。
                               (了)

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