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レバノンとヒズボラ

【フランス委任統治から独立へ】

レバノンはフランス委任統治領シリアの一部でしたが、1943年に分離独立しました。その後も内部のイスラム教徒とキリスト教徒の対立が続き、しばしば暴動が起き、外部勢力の介入の口実とされました。

地中海東岸に面し、気候の温暖な、生産力の豊かな土地で、かつてはシリアの一部をなしていました。首都はベイルートです。古代にはフェニキア人がシドンやティルスなどの都市を造り、地中海の海上貿易に活躍し、そのころから杉は「レバノン杉」と云われて名産でした。

その後、アッシリア、新バビロニア、ペルシア帝国、アレクサンドロスの帝国、セレウコス朝の支配の後、ローマ領となりました。ビザンツ帝国が衰えてイスラム化してからは住民の多くはアラブ系となりましたが、古来キリスト教徒(ビザンツ教会に服さず、ローマ教皇を支持する一派のマロン派)も多くいます。またアラブ系もスンニ派、シーア派、ドゥルーズ派などに別れ、宗教的なモザイク地域になっています。

【首都ベイルート】

レバノンの首都ベイルートは1975年のレバノン内戦以前は「中東のパリ」と謳われ、あらゆる商品の中継貿易港として栄えていました。しかも為替が自由なことから金相場がたち、全世界の有力銀行が集中していました。また、フランス統治領であったことから、フランス風の洗練された都市景観を持っていました。しかし、そのベイルートも内戦以降は荒廃していき、かつての面影が消えて行ってしまいました。

【レバノン杉とレバノン国旗】

レバノンは古くから「レバノン杉」で有名なところで美しい自然に恵まれた土地です。同時に「オリエント地域のあらゆる民族と宗教と民族を収めた美しい博物館」と表現されています。

数多あるレバノンの宗教のうち、有力なのがキリスト教マロン派で、アラブ人ながらキリスト教に入り、5世紀頃東ローマ教会から分離してヴァチカンのローマ教皇に従うようになった宗派です。このマロン派はキリスト教系であることから早くからヨーロッパ諸国と結び、社会的な上層部に多くの信者を持ちます。

それに対抗するのがイスラム教シーア派の分派で、異端中の異端と云われるドゥルーズ派で、輪廻転生を信じています。1943年の独立に際しては、マロン派、スンニ派、シーア派、ドゥルーズ派などで主要なポストは分配する形で妥協が成立しました。そこにパレスチナ人が割り込んできたために対立は一層複雑、深刻になりました。1975年にはパレスチナ人の乗ったバスをキリスト教徒民兵が襲撃して虐殺するという事件が起き、内乱が始まりました。

以下はレバノンの国旗です。

レバノンは古代から中東では貴重な杉の産地でした。現在では長い期間の伐採でほとんど残っておらず、わずかに残った杉の巨木は世界遺産として保護されています。

【シリアから分離独立】

第一次世界大戦後、オスマン帝国の支配から解放されましたが、セーヴル条約でフランスの委任統治領のシリアの一部とされました。

1941年にフランスはキリスト教徒を保護する名目でシリアから分離させ、1943年にレバノンとして独立しました。シリアからの独立に際して、有力宗派間で国民協約を締結しました。それは、フランス委任統治下の1932年の人口統計に基づき、大統領はキリスト教マロン派から、首相はイスラム教スンニ派から国会議長はイスラム教シーア派から出すこととし、国会議員の議席割合もキリスト教徒とムスリム(イスラム教徒)が6:5に規定されてバランスをとることとなりました。これを「宗派主義制度」と云い、事実上、キリスト教徒に有利な取り決めとなりました。

【中東情勢の緊迫】

フランス委任統治領のシリアから1943年に分離独立してから、レバノンは宗教各派の勢力の均衡をとりながら、西欧型の経済を発展させていきましたが、1948年に隣接する南部にイスラエルが建国され、パレスチナ難民がレバノン領内にも移住し、民族構成はますます複雑となりました。

1952年にエジプトでナセルに指導されたエジプト革命が起こり、エジプト共和国が生まれ、さらにナセルはスエズ運河の国有化を宣言して第二次中東戦争(スエズ戦争)を戦い、1958年にはシリアを統合してアラブ連合共和国を成立させました。

【レバノン暴動】

シリアから分離したレバノンでは、アラブ人住民の中にシリアと同様にアラブ連合共和国に加わろうという動きが起こりました。その動きを脅威に感じたマロン派の大統領シャムゥンは大統領任期を延長して動きを抑えようとしました。1958年5月8日、アラブ系住民が暴動を起こしレバノン暴動が起こり、内乱状態となりました。

大統領は暴動の背後にエジプトのナセルがいるとして非難し、ナセルはシャムゥンを帝国主義の手先と罵倒しました。さらに、1958年7月14日にはイラク革命が勃発、国王一族が殺害されアラブ民族主義政権が成立するという衝撃的な事態となると、危機に瀕したシャムゥン大統領はアメリカに軍事支援を要請、アイゼンハワー大統領がそれに応えて海兵隊を派遣しました。アラブ世界はアメリカの介入に反発しましたが、シャムゥン大統領が再選を諦めて退陣したことで暴動は収まり、まもなくアメリカ軍も撤退、レバノンは革命を回避しました。

【レバノン内戦の勃発】

1970年からはパレスチナ解放戦線(PLO)がベイルートに拠点を移し、レバノンの政治に大きな影響を与えるようになりました。特にキリスト教マロン派とイスラム教徒であるPLOは相容れないものがあり、両者は度々武力衝突を重ね、ついに1975年4月13日にマロン派の民兵組織ファランジ党(ファランヘ党、ファランジストともいう)とPLOが本格的に衝突し、レバノン内戦に突入しました。

内戦はまずキリスト教徒マロン派民兵組織のファランジュ党(ファラジスト)対イスラム教徒・パレスチナ人(PLO)の連合軍という構図でしたが、途中から隣国のシリア(アサド大統領)が介入、キリスト教徒側についてPLOと戦い、一応は終結させましたが、パレスチナ人はレバノン南部に拠点を確保し、PLOもベイルートに残りました。それ以降もシリアの影響力が強まりましたが、1982年にはPLOの排除を目指してイスラエル軍が侵攻し、首都ベイルートを攻撃しました。PLOはそれによってベイルートを退去し、チュニジアに移りました。

またこの時、マロン派民兵ファランジストは、ベイルート周辺のパレスチナ難民キャンプを襲撃して非戦闘員を含む多数を殺害し、その残虐行為は国際的な非難を浴びました。しかし、PLOはチュニジアに退去したため、パレスチナにおける指導力を失うことになりました。

【イスラエル軍の進駐と撤退】

レバノン侵攻を行ったイスラエルは、国連安保理の撤退決議にもかかわらずレバノン南部を占領しました。治安維持のためアメリカ・イギリス・フランスは多国籍軍を派遣しましたが、パレスチナゲリラん自爆攻撃が激しく、またシリア軍との衝突などもあり、撤退しました。

イスラエルは1985年には一方的に「安全保障地帯」を設けて、その後も駐留を続けました。しかし、1990年にはシリア軍が侵攻したため、イスラエル軍は後退、しかもレバノン国内のイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラによる抵抗活動が激しくなり、イスラエル兵の死者が増加していきました。そのため、2000年5月にそのため2000年5月にイスラエルはレバノンから撤退しました。

その後もイスラエル兵とヒズボラの戦闘は何度か起こりましたが、次第にヒズボラが優勢となり、レバノン南部を実効支配するようになりました。ヒズボラは実効支配地域からイスラエルに対してミサイル攻撃を行い、イスラエルもまた報復攻撃をするということが繰り返されるようになりました。

【反シリアと親シリアの対立】

1990年のシリア軍のレバノン侵攻以来、国内の親シリア派が政権を握りましたが、シリアの干渉に対する反発が強まり、国際的な批判も高まったため、2005年には反シリア派の指導者ハリーリが暗殺されたことをきっかけに反シリア、民主化を要求する運動が起きました。

ハリーリ暗殺の背後にシリアのアサド政権があるとの疑いが強まったことから、この運動はレバノンで初めて、宗派の対立を超えた盛り上がりを見せ、親シリア派は退陣、反シリア派が政権を握りました。シリア軍も撤退し、この変革は古来の名産のレバノン杉になぞらえ、「杉の革命」とも呼ばれました。

これによってシリアの影響力は弱まり、反シリア派政権が成立しましたが、南部を実効支配するヒズボラは、反イスラエルの立場から親シリアの態度を変えておらず、レバノンは複雑な分裂状態となりました。その後も、大統領は選挙で選出されることになっていますが、選挙に際しては両派が衝突するという事態が繰り返されています。

【ヒズボラ】

1982年、イスラエルのレバノン侵攻に抵抗する組織として、レバノン国内にシーア派武装組織ヒズボラ(アラビア語で「アッラー(神)の党」の意味)が生まれ、イランの支援を受けて反イスラエルのテロ行動を展開するようになりました。彼らは1985年頃から南部を中心に活動を活発にしてイスラエルへのロケット弾攻撃を展開、イスラエル兵に多数の犠牲が出ました。そのため、イスラエルは2000年にレバノン南部から撤退しましたが、ヒズボラはイスラエルへの攻撃を続けました。

2006年にはヒズボラがイスラエル兵を拉致したことをきっかけに、イスラエルは再びレバノン南部に侵攻(2006年のレバノン侵攻)しましたが、国際世論の反発から停戦に応じました。

イスラム教過激派テロ集団の一つと見られているシーア派民兵組織ヒズボラですが、レバノン政府や国際社会が求める武装解除には応じず、現在もレバノン南部を実効支配し、住民に病院や学校を提供し、事実上独立した「ヒズボラ国」の状態になっており、レバノン政府の力は及んでいません。

ヒズボラは宗教指導者ナスララ師のもとで、イスラエルの空爆犠牲者の遺族の保護、病院や学校以外にも町の清掃事業など住民に密着した活動を行い、住民の強い支持を受けています。その点ではパレスチナにおける反イスラエルの武装民兵組織ハマスと共通しています。

ヒズボラは現在は政治勢力の一つとして、レバノンの国政に参加、選挙を通じて代表をレバノン議会に送り、一定の政治的影響力を持つに至っています。しかし、国際社会からは依然としてテロ組織と見られており、そのイランやシリア寄りの姿勢に対してはレバノン内部や他のアラブ諸国からの反発が多いのも事実です。

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