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ミャンマーのクーデターを歴史的背景から知る。

ミャンマーの歴史


11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝であるパガン王朝が成立しました。その後、タウングー王朝、コンバウン王朝等を経て、1886年にイギリス領インドに併合されてその1州となりました。1937年にイギリス領インドから分離して自治領となりましたが、1948年1月4日にイギリス連邦を離脱して、完全な自主独立を果たしました。

しかし、独立直後からカレン族が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態でした。1962年、軍事クーデターにより、ネ・ウイン将軍、後に大統領による社会主義政権が成立しました。ビルマ式社会主義を掲げ、主要産業の国有化など社会主義的な経済政策が進められるようになりました。

1988年に起こった全国的な民主要求デモにより社会主義政権が崩壊し、政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握しました。

その後、1990年の総選挙では、民主化運動の指導者アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟が圧勝しました。しかし、政府は民政移管のためには憲法が必要であるとして政権移譲を行わず、権力を保持したため国際社会からの非難を受けることとなります。

ミャンマーがようやく民主化に向けて動き始めたのは、2003年民主化に向けた7段階の「ロードマップ」が発表され、その第一段階として、憲法の基本原則を決定するため国民会議を開催する旨を表明したところからです。そのロードマップに従って新憲法採択のための国民投票を実施、投票率98.12%、賛成票92.48%をもって新憲法が採択されました。2010年11月には新憲法に基づき20年ぶりに総選挙を実施し、選挙終了直後にアウン・サン・スー・チー氏の自宅軟禁が解除されました。

2011年3月に誕生したテイン・セイン大統領下の政権は民主化・国民和解に向けた改革を推し進め、欧米諸国の経済制裁の緩和も進みました。

ただしミャンマー国軍は、2011年の民政移管後も連邦議会の4分の1の議席をあらかじめ国軍に割り当てられることや、同国で最も権力のある省庁を支配する権限を憲法で保障されること、などによって裏から政治権力を維持し続けました。

2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、国民民主連盟が圧勝しました。国民民主党は党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、憲法の規定(夫が外国人であるため)によって立候補できず、側近のテイン・チョーが大統領に就任しました。これにより、54年ぶりに文民大統領が誕生し、半世紀に及んだ軍人による統治が終了しました。

アウン・サン・スー・チーは、国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」となりました。

次にミャンマーが抱える大きな問題を見てみます。

ロヒンギャ問題


国際社会が強く非難しているのがミャンマーが抱えるロヒンギャ問題です。

ロヒンギャとは、現在のバングラディシュに起源を持つとされる民族で、保守的なイスラムを信仰しています。言語はロヒンギャ語を母国語としています。ロヒンギャ語は、インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派に属するベンガル語の方言の一つと言われています。

ロヒンギャは、ミャンマー西部に位置するラカイン州に推定100万人が生活しています。世界中に散っていったロヒンギャの人々を合わせると200万人に達するのではないかと言われています。

ロヒンギャの知識階層は「ロヒンギャは8世紀からラカインの地に住み続けている」と主張しています。しかし、「ロヒンギャ」という呼称が登場する資料がほとんど存在せず、1950年の史料が最も古いとされています。ロヒンギャは8世紀からラカインの地に住み続いていることを示す古い資料が残っていないのです。

19世紀になると、ラカイン地方はイギリスの植民地となりました。このとき、ベンガル地方、現在のバングラディシュから移民が流入し、ラカイン地方の北西部に住み着き、そこで土着化しました。これによって多数派の上座部仏教徒と、イスラムを信仰するロヒンギャとの対立が本格化することとなりました。

第二次世界大戦後も、東パキスタン(現在のバングラディシュ)からの移民が食糧などを求めてラカイン北西部に流入してきました。さらに、1971年の印パ戦争(通称、バングラディシュ独立戦争)の混乱期にも、ラカイン地方への流入が相次ぎました。

ロヒンギャを名乗る民族集団は、15世紀からのアラカン王国の時代のイスラム教徒起源とする人々、19世紀以降のイギリス植民地時代の移民、第二次世界大戦後の社会的混乱に乗じて流入した移民、1971年の印パ戦争による社会的混乱に乗じて流入した移民から構成されると考えられます。

しかし、1950年頃、彼らが突如「ロヒンギャ」を名乗るようになった経緯は未だに分かっていません。

ロヒンギャに対する差別が本格化したのは、1962年に軍事クーデター以降です。軍事クーデターによって政府軍が主導して「ビルマ民族中心主義」に基づく中央集権的な社会主義体制(これは「ビルマ式社会主義」と呼ばれました)が成立します。

このような社会状況や国家体制の変化によって、ロヒンギャ難民が発生しました。特に国外流出が多かった1978年と1991年の合計は20万人とも25万人ともいわれています。

また、1982年に国籍法が改正され、ロヒンギャはミャンマー土着の民族ではないことが合法化されました。これを受けて、ロヒンギャは主張する限り、外国人とみなされるようになったのです。2015年には選挙権と被選挙権が剥奪されました。

アウン・サン・スー・チー氏が国家顧問就任後は、2016年8月に彼女の主導で、コフィ・アナン元国連事務総長に委員長になってもらい、第三者によるラカイン問題調査委員会を発足させました。

ここでもロヒンギャという呼称は使っていませんが、実質的にロヒンギャ問題に関する調査と解決方法の提示を主務とする調査に取り組ませました。この委員会は9人のメンバーで構成され、うち3人はコフィ・アナン氏を含む外国人で、かつメンバーのうち2人はムスリム(イスラム教徒)でした。

この委員会は一年間の調査を行った後、2つの骨子とする提言を公表しました。

1.ラカイン西北部に住むムスリム(=ロヒンギャ)の移動の自由を認めるべきである。

2.彼らの中で世代を超えてこの地に住む者には国籍を付与すべきである。関連してミャンマー国籍法(1982年施行)で国籍を「正規国民」「準国民」「帰化国民」に3分類しているが、一本化に向けた再検討が求められる。

この提言はアウン・サン・スー・チー氏が元々考えていた解決への道筋でした。この道筋で進む可能性が見えてきて時に事件が起こりました。

「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)による政府軍襲撃が発生したのです。アラカン・ロヒンギャ救世軍とは、ラカイン州で発生した仏教徒とロヒンギャが中心となって結成された反政府組織です。

2017年8月にアラカン・ロヒンギャ救世軍は警察など多数の施設を襲撃。襲撃に使われた武器は刃物や棒などの簡素なものでした。しかし、政府軍は徹底的な反撃を実行。そのため、軍の掃討作戦を避けるために数十万人規模のロヒンギャが、バングラディシュへ難民として流出するきっかけとなったのです。

国際世論はアウン・サン・スー・チー政権によるロヒンギャ保護を求めましたが、ミャンマー政府の正式見解はロヒンギャを認めず、バングラディシュからの不法移民と見做しており、アウン・サン・スー・チー氏への非難が高まりました。

しかし、彼女にはロヒンギャ問題解決のためには権限が足りない面もありました。憲法上、軍と警察と国境問題に対する法律上の権限が与えられていなかったのです。

軍政期の2008年につくられた現行憲法では、軍の権限が様々に認められており、シヴィリアン・コントロールが徹底されていません。ロヒンギャ問題はこの3つの分野に直結していることが、アウン・サン・スー・チー氏が解決へ取り組めない原因でもありました。

2020年選挙での不正疑惑


2020年の選挙ではアウン・サン・スー・チー国家顧問率いる国民民主連盟が議席の8割以上を獲得する圧勝を収めました。

しかし、国軍は総選挙で800万件以上の不正行為があったことが判明したと発表しました。国家権力を掌握したミン・アウン・フライン国軍総司令官はテレビ演説で「民主的な選挙の有権者名簿をめぐって、ひどい不正があった」と述べています。そして、選挙管理委員会はそのことを明らかにしなかったとも国軍は主張しています。国軍の主張は異なる町から名簿を集めたところ、国の同じ登録番号がいくつも見つかったというものです。

独立した選挙監視団は「有権者名簿に重大な誤りがあった可能性」は認めています。ただ、選挙で実際に不正が行われたことを示す証拠は、これまで示されていません。選挙管理委員会も国軍の主張を支える根拠は全くないと反論しています。

監視員40人超を投票所に派遣した米NGOのカーター・センターは「目立った不正が監視員から報告されることなく」総選挙は実施されたとしています。

クーデターで再び軍事政権に


総選挙後初の議会が開かれる予定だった2021年2月1日、軍部は軍事クーデターを起こし、ウィンミン大統領やアウン・サン・スー・チー氏を拘束しました。ミン・アウン・フライン国軍総司令官が全権を掌握したと宣言しました。軍事政権の閣僚には、国軍系政党の連邦団結発展党(USDP)の主導で2011年に旧軍政下で発足したテイン・セイン政権の元閣僚らが起用されています。

軍事政権

米国、欧州諸国、日本、インド、国際連合、EUからはアウン・サン・スー・チー氏らの解放と民政復帰を求める批判が起きています。特に米国は制裁の復活をちらつかせています。ただ、米軍とミャンマー軍に交流がないため、制裁は限定的ではないかともいわれています。

中国の影


2021年2月1日のクーデターで最も重要だったのは中国の動きだった可能性があります。1月に中国の王毅外相とミンアウンフライン国軍総司令官の会談が行われています。その会談がクーデターを決定した重要な契機だったのかもしれないと言われています。

ミャンマーと中国の関係を考えるとき、これまでの経緯を見ておく必要があります。

中国政府は、これまでミャンマーの軍事政権よりも、アウン・サン・スー・チー率いる文民政府との距離を縮めてきました。その理由は国軍の側にあります。国軍は外国に依存することを極端に嫌い、外国に支配されるのであれば、国際的に孤立する方が良いとするスタンスを選んできました。それは、社会主義国家として思想を同じくしていた中国のような国に対しても同じでした。

中国とミャンマーの関係を考えるとき、課題として存在し続けているのが、ミッソン・ダムの建設です。

ミッソン・ダムは、ミャンマーと国境を接する中国雲南省の深刻な電力不足を背景に、2009年3月の「水力発電の共同開発に関する中国とミャンマーの政府間枠組み協定」に基づく、両国の国家プロジェクトとして建設が始まったものです。

投資総額36億ドル、計画総発電容量600万KWに及ぶ大プロジェクトで、計画通り2017年に完成すると、ミャンマー国内最大の発電所になることが期待されていました。

しかし、ミャンマー国内では住民の移転問題などの問題から反対の声が上がっていました。

2011年9月末当時のテインセイン大統領は、任期中(2016年3月30日まで)は建設中止を発表しました。以来、建設は再開されずに来ました。

このような巨大プロジェクトであっても、停止したままにしているのは、中国に依存することへの恐れが原因と言われています。

このように、国軍は中国への依存を嫌っていたにも関わらず、2021年1月に王毅外相とフライン総司令官が会った際に、何らかの変化があったのではないかと思われます。

おそらく、両国間の経済的関係を継続し、深化させると約束したことで、中国側がクーデター計画を止めることを躊躇したのでしょう。両国間の関係の話し合いはどうなったのかは、ミッソン・ダムの建設再開か否かで見えてきます。もしも、地元住民の建設反対を押し切って再開されるとなれば、ミャンマーが中国に軸足を移したとみることができます。

そして、中国にとってミャンマーは一帯一路戦略における「海のシルクロード」建設の重要基点です。また、中国がミャンマーを支援してインフラを整備すれば、マラッカ海峡を通らずに中東からのエネルギーを安全に輸送するための命綱となり、また、インド洋に出るための軍事拠点ともなり得るのです。

未来創造パートナー 宮野宏樹

その他にも歴史を振り返る記事を書いています。


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