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イスラエル・パレスチナ問題を知る ⑦

【第四次中東戦争】

ナセルに代わってエジプトの大統領となったサダトは、国号をエジプト・アラブ共和国に改めると共に、第三次中東戦争で奪われたシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始、不意を突かれたイスラエル軍は後退を余儀なくされました。

エジプト大統領サダトの主導した奇襲作戦は成功を収め、中東戦争で初めてアラブ側が勝利を占めたかに見えました。しかし、ようやく体制を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間でとどまりました。その時点で米国が停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となりました。

アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」又は「ラマダン戦争」といい、イスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム・キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム・キプール戦争」と言っています。

1973年10月23日に休戦協定が成立し、シナイ半島のイスラエルの占領、ゴラン高原には国連平和維持軍(PKF)の駐留が決まりました。この間、サウジアラビアを初めとするアラブ諸国は、石油戦略を展開してイスラエル及びその支持国に圧力をかけました。

【アラブ諸国の石油戦略発動】

この戦争でイスラエル軍不敗の神話が崩れ、エジプト大統領サダトはこれを有利な材料としてシナイ半島の返還をイスラエルに迫りました。

また、アラブ諸国は石油戦略を発動させました。まず、10月17日、石油輸出国機構(OPEC)の中東6か国は原油の公示価格を1バレル当たり約3ドルから5ドル強へ、一挙に70%も引き上げました。さらにその翌日、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は米国とオランダなど親イスラエル諸国に対する石油輸出の禁止を宣言し、世界を震撼させました。この石油戦略を主導したのはサウジアラビアのファイサル国王とヤマニ石油相でした。

サウジアラビアは当時、親米的でしたが、第三次中東戦争(1967年)以来のイスラエルのシナイ半島・ゴラン高原・ヨルダン川左岸などの占領が続いていることに対するアラブ諸国の不満の高まりを無視できず、アラブ諸国の唯一の優位な力である産油国であることを活かし、イスラエルと米国に圧力をかけて、有利な休戦条件に持ち込もうとしたのでした。

10月23日にはOPECの中東湾岸6カ国は1974年1月1日から原油の公示価格を130%引き上げ、バレル当たり11ドル65セントとすることを決めました。

この決定について国際石油資本(石油メジャー)には何の相談もなく、またそれ以降も原油価格でメジャーは二度と相談されることはありませんでした。石油メジャーのうち第二次世界大戦後から1970年代まで石油の生産をほぼ独占状態に置いた7社をセブン・シスターズと呼びましたが、そのセブン・シスターズの時代は石油の禁輸という混乱の最中に終わりを迎えました。

【石油危機(オイルショック)の影響】

それまで安価な中東の原油に依存していた米国を初めとする先進工業国は大きな打撃を受けました。また、1971年のニクソンショックによって米国の経済力を背景としたブレトン・ウッズ体制が維持できなくなっていたこともあり、米国中心の国際秩序は大きく転換することとなりました。それは1973年1月に英国などがヨーロッパ共同体に参加して「拡大EC」となっていましたが、さらに1975年に第1回の先進国首脳会議(サミット)が開催されたことにあらわれており、米ソ二大国を軸とした冷戦構造が転換するきかっけとなったということができます。

尚、アラブ諸国にとっては、石油戦略という資源ナショナリズムを全面に打ち出してイスラエルと対決する構図は、社会主義路線による統一を目指すというナセル以来のアラブの戦略が終わりを告げたことを意味しており、サダト大統領のエジプトに見られるような資本主義化が顕著になっていきます。その亀裂から台頭したのがイスラム原理主義の勢力でした。

【石油危機(オイルショック)と日本】

石油危機(オイルショック)中東の石油にエネルギー源を依存する日本経済にも大きな打撃となり、これを契機として高度経済成長を終わらせ、低成長期に入ることとなりました。

10月、OAPECが、親イスラエル政策を採る諸国に対する石油輸出の制限を発表すると、日本政府(田中角栄内閣)は大きな衝撃を受けました。日本も親イスラエル国家に加えられていたので、禁輸リストに載せられていたのです。そこで、政府は急遽、二階堂官房長官の談話として、イスラエル軍の占領地からの撤退とパレスチナ人権への配慮を声明しました。

これは米国のユダヤ系勢力の反発が予想されましたが、石油禁輸の事態を避けるためにやむなく踏み切りました。また、12月には三木武夫副総理を特使としてサウジアラビア、エジプト、シリアなどアラブ諸国に派遣し、禁輸リストからの除外を要請しました。これらの外交努力により、日本は結果的に禁輸国リストから外されました。

日本国内では1973年の晩秋、日本全国のスーパー店頭からトイレットペーパーや洗剤が消えました。石油危機(オイルショック)の影響です。「石油供給が途絶えれば、日本は物不足になるのでは?」。そんな不安感が人々を買いだめ・買い占めに走らせ、一方で売り惜しみや便乗値上げなどをする小売店も現れました。

原油の値上がりはガソリンなどの石油関連製品の値上げに直結し、物価は瞬く間に上昇。急激なインフレはそれまで旺盛だった経済活動にブレーキをかけ、1974年度の日本経済は戦後初めてマイナス成長となりました。高度経済成長はここに終わりを告げたのです。

その影響を数値で見ておきます。第1次石油危機(オイルショック)前5.7%だった一般消費者物価上昇率は、昭和48年には15.6%、昭和49年は20.9%と急伸。鉱工業生産指数については、第一次石油危機(オイルショック)前の昭和46年~48年の平均が8.1%だったのに対して、昭和49年~50年度の平均はマイナス7.2%となりました。その激震ぶりがうかがえます。

この激震を乗り切るべく、政府は様々な対策を実施。「石油節約運動」として、国民には日曜日のドライブ自粛、高速道路での低速運転、暖房の設定温度調整などを呼びかけました。ちなみに、資源エネルギー庁が当時の通商産業省内に設置されたのも1973年でした。

【中東戦争後の情勢】

第四次中東戦争においては、エジプトは緒戦で勝利を収め、また国際政治では石油戦略によって優位に立って停戦に持ち込みましたが、シナイ半島をただちに奪還することはできませんでした。また、四次にわたる中東戦争はエジプト財政を大きく圧迫し、サダト大統領は方針転換を迫られました。経済再建には米国資本の支援が必要と考えましたが、その障害となるのがイスラエル敵視政策だったため、サダトは密かにその転換を図りました。

ついに1977年、サダトは突然イスラエルを訪問、イスラエルの存在を承認し、対等な交渉相手として和平交渉に入ることを表明しました。次いで翌78年、米国のカーター大統領の仲介でイスラエルのベギン首相との間でエジプト・イスラエルの和平を実現しました。これによってエジプトとイスラエルの対立を軸とする中東の対立関係は解消され、焦点はパレスチナ・ゲリラを率いて反イスラエル闘争を展開するパレスチナ解放機構(PLO)の動きに移っていきました。

【パレスチナ解放機構(PLO)とその中心のファタハの歴史】

ファタハは1957年にアラファトが中心となって組織したパレスチナ・ゲリラ武装組織。ファタハ(fatah)とは、「パレスチナ解放機構」を意味するアラビア語の語順を逆にしたものであるといいます。1964年にアラブ諸国の支援によりパレスチナ解放機構(PLO)が結成されましたが、当初はイスラエルを非難するだけで何の行動も起こさなかったのに対し、1965年にファタハは明確にイスラエルに対する武装闘争を開始しました。しかし、アラブ諸国はファタハをPLOの管理外にあったので危険視し、弾圧しました。

1967年6月、第三次中東戦争が起こり、アラブ側はヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)とガザ地区、シナイ半島を占領され、多数のパレスチナ難民が生まれると、ファタハは武装闘争によって自力でパレスチナ人の祖国を奪還するしかないと決意しました。

ファタハは1968年3月、ヨルダン川東岸のパレスチナ難民キャンプを攻撃したイスラエル軍を撃退して、一気にその存在を知られるようになりました。翌1969年2月にアラファトがPLO議長に選出されてから、ファタハが主導権を握り、PLOはゲリラ戦術を主体とするようになりました。

しかし、PLOの構成団体は闘争方針と思想をめぐって対立と分裂を繰り返しました。ファタハはイスラム原理主義とは異なって宗教色は薄く、世俗的な社会主義路線に近い主張を持っていました。ただしマルクス・レーニン主義に立つパレスチナ解放人民戦線(PFLP)とも異なっていました。

第三次中東戦争の後、米ソの冷戦体制が続く国際情勢では、大国主導での中東和平が進められようとしていましたが、PLO各派はパレスチナ人を抜きにした和平交渉に反発し、ハイジャックなどのテロ戦術を競って展開するようになりました。それに対し、イスラエル政府も激しく反応し、パレスチナ人の部落を襲撃して集団虐殺が行われるなど、国際的な非難も沸き起こりました。

かつてナチスによる迫害を受けたユダヤ人が、非人道的なパレスチナ人を迫害するはずがないと信じていた国際世論の多くはファタハなどのPLOのテロ行為を非難する声が強くありましたが、次第にイスラエル側の過剰な非人道的報復も非難されるようになりました。

1970年9月16日、ヨルダン(フセイン国王)政府が同国内を拠点としてテロ活動を続けるパレスチナ解放戦線(PLO)に対して大弾圧を行いました。

【「黒い9月」事件】

ヨルダン王国はアラブ諸国の一つであり、パレスチナに隣接してその東に位置するため、第一次中東戦争と第三次中東戦争で生じたパレスチナ難民の多数が移住してきていました。パレスチナ・ゲリラ組織のPLOもヨルダンを拠点に活動し、イスラエルを攻撃したので、イスラエルもしばしばゲリラ弾圧の名目でヨルダン領内に侵攻してきました。

当初、ヨルダン政府はPLOを支援していましたが、ゲリラの中にはヨルダンの王政を批判するものも現れたので、フセイン国王はパレスチナ難民とPLOの存在を、ヨルダンを危険にさらるものと考えるようになり、1970年9月にPLOに国外退去を宣告し、弾圧を加えました。首都アンマンのパレスチナ難民キャンプが戦場となり、一般市民も巻き込んで、パレスチナ人だけでも4000人近い死者が出ました。この、アラブ人同士の対立を憂慮したエジプトのナセル大統領が仲介に乗り出しましたが、同月28日に急死し、調停は成立しませんでした。結局、PLOを敗れて首都アンマンを撤退し、レバノンのベイルートに移らざるを得なくなりました。

この屈辱をパレスチナ・ゲリラ側は「黒い9月」と呼びました。さらに過激化したPLO内部のゲリラ組織ファタハは「黒い9月」グループを組織し、報復に出て翌年11月にはヨルダン首相を暗殺しました。ヨルダンはPLOと断交し、同じアラブ人同士が対立する事態となりました。(両者は1985年のアンマン合意で和解しました)

【ミュンヘン・オリンピック襲撃事件】

パレスチナ解放機構(PLO)のゲリラ組織ファタハは、1970年の9月のヨルダン政府軍によるパレスチナ難民キャンプ襲撃による弾圧に対する報復を行うべく「黒い9月」と称するテロ実行部隊を組織しました。71年のヨルダン首相暗殺に続き、さらに過激な対イスラエルのテロ活動を計画し、1972年9月、ミュンヘン・オリンピックの選手村を襲撃してイスラエル選手9名を人質にする事件を起こし、オリンピック史上最大のテロ事件として世界を震撼させました。

9人の人質とともに空軍飛行場に向かったゲリラに対し警官隊、軍隊が救出作戦を決行したものの失敗。銃撃戦に発展し人質全員が死亡しました。

【ファタハの路線転換】

1973年、エジプトのサダト大統領は、イスラエルに占領された地域の奪還を目指し、第四次中東戦争を起こしました。緒戦では勝利したものの、反撃され実質的な敗北となったことから、エジプトは武力方針からイスラエルとの共存を図る和平路線に大きく舵を切りました。1974年のアラブ首脳会議ではイスラエルの存在を認めた上で、その非占領地にパレスチナ国家を樹立する構想が採択され、その前提としてPLOを唯一のパレスチナ人の代表と認定しました。しかし、それはPLOにとっても大きな試練を意味していました。

国際社会では国連においてパレスチナ国家を承認する国が増えるなど、PLOに有利に動き始めたことを受けて、ファタハは現実路線に踏み切り、イスラエルの容認と非占領地に限定したパレスチナ国家の樹立を認め、アラファトが国連総会で演説し、その旨を明らかにしました。それに対してPLO内のパレスチナ解放人民戦線(PFLP)など各派はイスラエルの容認には反対、またイスラエル占領地(ヨルダン川西岸、ガザ地区、シナイ半島)の返還を和平の条件としたため、ファタハとの対立を強めていきました。

また、さらにPLOを苦難に陥れたのが1975年4月からのレバノン内戦でした。PLOが拠点を移していたレバノンでは、キリスト教マロン派の民兵組織ファランジストがイスラム教徒の排除を掲げてパレスチナ難民を襲撃、反撃したPLOは攻勢を強めましたが、隣国のシリアのアサド政権が介入、PLOを攻撃し、アラブ世界内の内紛となりました。

パレスチナ人はレバノン内でも自治権を認められ、民主的な政治・社会の実現を進めていましたが、アサド政権はそのようなパレスチナ革命の動きがシリアに波及することを恐れたのでした。レバノン内戦は1976年11月までに約2万人の死者を出して終結しました。

【エジプト・イスラエルの和平】

1977年、イスラエルの右派リクードのベギン政権が成立、占領地でのユダヤ人入植地の拡大などを図るようになると、エジプトのサダト大統領は11月、電撃的にイスラエルを訪問、国会で演説し和平を訴えました。PLOを抜きのパレスチナ和平構想は一気に進み、翌78年9月には米国のカーター大統領の仲介でサダト大統領とベギン首相が会談、キャンプ・デービッド合意が成立しました。その合意に基づき1979年3月エジプト・イスラエル和平条約が締結され、シナイ半島はエジプトに返還されました。

PLO主流派のファタハは孤立を深め、1982年はイスラエル軍のレバノン侵攻(レバノン戦争)によってベイルートを追われ、本拠地をチュニスに移しました。この時のイスラエル軍は米国から購入した最新火器を投入し、PLOを排除するという名目でパレスチナ難民を殺戮しました。PLO内部では、ベイルートからの撤退を巡る指揮系統の乱れから内部対立が生じ、反アラファトの勢力も台頭していきました。

レバノンからの撤退によりパレスチナでの主導権を失ったファタハ首脳部は次第に現実路線を強め、イスラエルとの共存を模索するに至りました。しかし、若い世代のパレスチナ・ゲリラはそのようなファタハに反発し、イスラエルの最新兵器に対抗する戦術として自爆テロを開始しました。こうしてイスラエル軍によるパレスチナ人への無差別攻撃、それに対抗するパレスチナ・ゲリラによる自爆テロという悲惨な悪循環が繰り返されることになりました。

続く


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