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イスラエル・パレスチナ問題を知る~アラファト編~

【アラファトの略歴】

アラファトは1969年2月にパレスチナ解放機構(PLO)の議長に就任し、1970年代以降のパレスチナ人の対イスラエル闘争と独立運動を指導し、90年代には中東和平交渉のパレスチナ代表として活躍した人物です。特に1970年代以降のパレスチナ問題(中東問題)のカギを握る人物として世界の耳目を集めました。1980年代末からはイスラエルの存在を認めて「二国家共存」の和平を進め、暫定自治の行政には失敗し、完全なパレスチナ国家の樹立を見ることなく2004年に死去しました。

【ファタハの結成】

1929年にアラブ人としてエルサレムに生まれ、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)、第二次中東戦争(スエズ戦争)にアラブ軍兵士として参加、1959年頃、数人の仲間と「アル・ファタハ」(略称ファタハ)という武装集団を結成しました。アル・ファタハはパレスチナの解放はアラブ諸国の首脳の政治的駆け引きで実現されるのではなく、パレスチナ人自らが武器を持って起ち上がるしかないと考え、ヨルダンを基地として、シリアからの武器援助を受け、65年からイスラエルに潜入して破壊活動を開始しました。

【PLO議長として活躍】

1968年3月21日の戦闘で、PLOのゲリラ戦術がイスラエル軍に勝利し、アラファトの名声が上がり、翌年PLO議長となり、パレスチナ側の代表格となりました。しかし、ヨルダンのフセイン国王は、国内での反体制運動に転化することをおそれ、1970年にPLOに国外退去を要求、アラブ人同士の戦闘であるヨルダン内戦が勃発(PLOはこれを「黒い9月」と呼んだ)の結果、PLOは拠点をレバノンのベイルートに移すことになりました。

(出典:グーグルマップ)

1970年代にはPLOの主流派を占めたアラファト属するファタハなどの激しい武装闘争は世界の注目を集めました。イスラエルのロッド空港での無差別テロ、「黒い9月」グループによるミュンヘン・オリンピック襲撃事件(イスラエル・パレスチナ問題を知る⑦参照)などは国際社会から批判を浴びるようになりました。

【エジプトの方向転換】

アラブとイスラエルの対立軸の中心となっていたエジプトは1970年にナセルの死去によりサダト大統領に交代、アラブの盟主としての立場から第四次中東戦争を起こし、一時的な勝利を収めて名声を高めましたが、その後、財政悪化に陥り、密かに和平を模索することになりました。

レバノンではキリスト教(マロン派)が多数を占めていたので、PLOを支持するイスラム教徒との内戦(75年レバノン内戦)が起こりました。しかもアラブ国家である隣国のシリア(アサド大統領)が介入してPLO排除に動き、PLOは苦戦に陥りました。この間、エジプトのサダト大統領のイスラエルとの和平工作が進み、1979年エジプト・イスラエル和平条約を締結、これはPLOにとっては「裏切り行為」となり、PLOはエジプトの支援なしにイスラエルと戦わざるを得なくなりました。

エジプトとの和平を達成したイスラエルは、レバノンのPLO排除を本格化させました。1982年にはイスラエル軍がレバノンに侵攻、ベイルートを占領したため、アラファトらPLO指導部はチュニジアに移動せざるを得なくなりました。

(出典:グーグルマップ)

パレスチナを離れたPLOはその頃から武装闘争路線を後退させ、外交的手段でパレスチナ国家樹立を目指す方向に転換、和平を模索することになります。

【和平路線に転換】

1987年、ガザ地区で自然発生的なパレスチナ人の暴動(インティファーダ)が起こり、国際世論がパレスチナ自治実現の方向に大きく傾きました。このような情勢を受け、1988年12月にアラファトは国連で演説して「イスラエルの生存を認め、テロ行為を放棄する」という「二国家共存」路線への転換を宣言しました。

和平路線への転換は、1989年の冷戦の終結、1990年のソ連の解体という国際社会の激変の中で好感を持って迎えられ、両者の間でも大国主導の和平ではない、直接的な交渉が模索されるようになり、1991年からノルウェーのオスロでの秘密交渉が始まりました。両者は暫定自治の実現でのオスロ合意に達し、1993年9月クリントン大統領の立ち会いのもとで、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファトが握手してパレスチナ暫定自治協定が成立しました。

アラファトは1994年、ガザに戻ってパレスチナ暫定自治行政府議長となりました。翌年にはイスラエルのラビン首相らと共にノーベル平和賞を受賞しました。しかし、1995年にラビン首相が暗殺されて和平路線は停滞が予想されました。

1996年のパレスチナ暫定自治政府の議会選挙ではファタハは最大多数を獲得し、アラファトは自治政府代表に就任したものの、イスラエルはその後、ネタニヤフ政権やシャロン政権の右派政権のもとで、パレスチナ側の自爆テロに対する報復としてイスラエル軍による軍事行動を続けるという悪循環に陥りました。2000年9月にはイスラエル右派のリクード党首シャロンの神殿の丘立ち入りに抗議する第二次インティファーダが起こりました。このあたりから、パレスチナ民衆を指導する主流はアラファトらのファタハからイスラム原理主義に基づく国家建設を掲げるハマスに移っていきました。

【再び激しい争いへ】

2001年9月の同時多発テロが起こると、米国はテロとの戦いを全面的に行うと宣言しました。パレスチナでも自爆テロとイスラエルの報復の連鎖が続きました。イスラエルはPLOをテロの根源と断定して、2001年12月、ヨルダン川西岸地区ラマラのパレスチナ自治政府PLOを攻撃し、2002年にはアラファトを軟禁状態においてその行動を制約しました。そのため、アラファトは次第に実権から離れざるを得なくなりました。

代わってガザ地区を地盤としてイスラム原理主義のハマスが台頭し、民衆の支持を集めるようになりました。そのようなPLOにとっての危機的状況の中、アラファトは2004年11月、パレスチナの解放を見ることなく死去しました。

【アラファトという人物】

アラファトはパレスチナ民族運動の指導者として、PLOのゲリラ部隊であるファタハを率いてイスラエル軍だけでなく、ヨルダン、レバノンなどの正規軍とも戦い、幾度か敗北しながら粘り強く戦いました。その点では傑出したゲリラ戦の指導者だったと言えます。

そのアラファトが1994年から暫定自治政府の長として、ヨルダン川西岸・ガザ地区のパレスチナ人を統治するという立場に立つことになりました。「自治政府の長」として、その行政手腕が問われることになりましたが、その実態は他のアラブ諸国の独裁政治と変わることはありませんでした。

現在のパレスチナ人にとってもアラファトは功罪相半ばする人物として評価されているといいます。「革命家」としては優れたいたが、「統治者」としては失格だったという歴史上の人物は多数います。アラファトもその一人ではないでしょうか。

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