コラム:描くより書く方が向いているのでは?

Q. 前にも記載したが、描くより書く方が向いているのでは?
A. 日本語はこれまでずっと使ってきたから理想の出力ができることがそう思う理由であると気づく。
イラストも日本語も表現という括りでは同じ。つまりイラストも言語の1種である。
いらすとや さんや標識のように誰にでも分かりやすい一般的な言語もあれば、本人のみが知る情報や意味が込められている特殊な言語もある。
つまり、イラストという言語を使ってきた年数が日本語と同じではないのだから向き不向きを意識してしまうということだ。それはイラストを使うことに慣れていないから。

私は今、ほぼ無心状態でイラストを進めている。無心といっても、ちゃんと特徴点を見ようとはしたりして考えるようにはしている。そのおかげで今まで雑に見ていた部分を洗い出すこともできた。

なぜ、ほぼ無心状態でることを紹介したかというと、ひらがなの練習を思い出したからだ。
ひらがなの練習というみんな覚えようとしてやっていたことと同じようなことを今やっている。お手本を見てそれと同じような形を真似る。そしてそれを反復する。
物事というのは対象が変わっても根本は変わらないということが多い。しかし、なぜか自分のように対象が変わると同じようなことができない人がいるとも思う。
きっとその人は対象が変わると全く別なものに見えてしまうのだろうと考える。

自分自身、酷い方向音痴だ。
方向音痴が対象が変わると全く別なものに見えてしまうことにどうかかわってくるかというと、私の場合の方向音痴はなんのシンボルも意識せずに来た道を帰る時、その来た道を全く別な道と認識してしまうのだ。
つまり、景色が変わってしまうと同じ道すらも全く別な道と認識してしまうということだ。

このことから、対象が変わると全く別なものに見えてしまうという感覚が既に備わってしまっていると考えられる。
そんな自分がどうやって道を覚えるのか。それはシンボルを意識すること。例えば、そこの曲がり角の近くに郵便ポストが置いてある、など。
ひらがなもそうだ。止めハネはらい、むすぶといったシンボルを覚えて練習する。
これをイラストに置き換えると、自分は目にかかる前髪は上まつ毛までの長さになる、といった具合にシンボルを意識する。
そしてそれらはこじつけで作成される。
例えば、頭の後頭部の位置と右肩幅は同じ線上になる。背中のくびれが1番へこんでいる部分は右目の切開の位置と同じ線上にある。といった具合に、どんなに遠くのパーツすらも共通している(使える)部分だと思ったらこじつけでシンボルにする。

改めて自分の見方を考え直してみると非常に非効率な感覚を持ってしまったと思う。計らないと認識できない感覚。
こうなってくると逆に他のイラストレーターさんがどんな感覚をもっているのか気になり始める。
見ることが成熟している人は見たものをほとんど同じようにイラストに表せる。その見えている感覚、対象を見ている時に考えていること、白紙の中に見えている世界を知りたい。

自分もいつかその感覚が分かる日が来るのだろうか。
それとも一生こじつけものさしを片手に生きていくのだろうか。
そもそも実はこの感覚と知りたい感覚の根本は同じものなのだろうか。

P.S.このQ&Aの内容は日記#63#64にもコピペしておく。
基は日記の内容だからだ。

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