コラム:そうじゃない側の想いについて

はじめに

色々な作品で触れられて既に答えの出ていることだが、これは私が今後生きていくうえで目を背けてはいけないことだと思ったから記載することにした。

内容1:”勝ち”と”負け”

この世には”そうである側”と”そうじゃない側”という概念が存在する。
最も分かりやすいのは、”勝った側”と”負けた側”だ。
まずは、その分かりやすい例を基に考えていく。

この世には古くに”負けたのは気持ちが負けているから”という言葉がある。
これは完全に間違っているわけではないが、完全に間違っていないわけでもない。
気持ちが負けて勝てることにも勝てなくなるというのは、緊張や恐れなどで本来の実力が出せなかった結果の場合は適応されるだろう。
しかし、本来の実力が出せているのに負けた場合はどうだろう。
答えは明白だ。
それは実力が足りなかったからだ。
ランダム性のあることであった場合は運があった/なかったという話もついてくるだろう。

スポーツなどの身体能力を競う場であったならそういったやりとりで話は終わる。

では、恋愛はどうだろう。
想いが強いだけでも、勉強や運動、社交性などの人間性が高いだけでも勝つことは難しい。
また、それは運で片づけることもできない。

今回の話題はギャルゲーやハーレムラブコメから得られたことだ。
皆それぞれ好みのキャラクターを1人選ぶと、それ以外はモブに成り下がる。
各々がそれぞれの個性を持ち、同じ想いの強さを持っているはずなのに選ばれることがないキャラクターが現れてしまう。
そして、選ばれたキャラクターが”勝ち”で、モブが”負け”という扱いをされてしまう。

勝ちには私たちと楽しくて時々喧嘩も起きる幸せな続きが待っているが、負けの先は分からない。明示されない。
時々、友達として笑顔で登場する程度で、明確な続きは誰も教えてくれない。内心は誰にも教えてくれない。

内容2:”負け側”のその後

その後:短期間

内容1から私は”負け側”のその後を想像をしてみた。

まず、時々、友達として笑顔で登場することに対して、
私たちの前で笑顔で登場すること自体は分かる。
そのキャラクターは元々私たちのことが大好きだったのだから、私たちの気分を悪くするようなことはできない。つまり、良い関係を続けるために、良い役に徹している。と私は思うからだ。

では、内心ではどう思っているのだろうか。
見えないところでは何を考えて、どんな生活をしているのだろうか。

振られてからすぐの時期はきっと私たちの前では必死に歪みを見せないように努力しているだろう。
私たちへの想いは強く残ったままなのだから、私たちへ向ける好意とその裏に透けて見える勝ちの存在に心をぐちゃぐちゃにして、それでもなお笑顔を崩さないように、関係や空気を崩さないように保っているかもしれない。

あるいは一切顔を見せない、合わせないことに徹するだろう。
勝ちへの嫉妬や勝ちの持つ価値を持ってないことに対する自責、理由探しで頭がいっぱいになると同時に私たちを見てしまったら忘れようとしていた想いを思い出してしまうかもしれないから。

あるいは既に割り切ってしまっているのだろう。
もう勝ちのものであるから負けのできる範囲で私たちの行く末を見守ってくれているかもしれない。

皆、それぞれの悲しみを持ち、それと向き合うためにどうにかしようとしている。もしくは、その悲しみによる虚無感で”冷めてしまった”かもしれない。

その後:長期間

ここからは、更に先のことを想像してみる。
ここで言う”先のこと”とは数か月先、数年先の状態を指すことにする。

”辛いことは時間が解決してくれる”とよく言う。
実際に辛いことを時間が解決してくれた私にとってその言葉は信じるに値するが、そうでない場合何が辛いことを解決してくれるのだろうか。
そもそも辛いことは解決しなければならないことなのだろうか。
※時が解決してくれた私の問題は、ここに記載している内容とは全く関係ないが、時が解決してくれた一例として私を挙げた。

ここでいう解決とは”なにかあって(起きて、出会って)、また元気な状態に戻る”こと。
代表的な例は”新たな出会いがあること”。
つまり、何らかのキッカケがあってそのおかげで前向きになれたということ。
そのキッカケは外から来るものかもしれないし、ふと自分で気が付いた時に来ることかもしれない。

また、私たちが幸せで居続けることを願い続けることで支えになることもあるだろう。
その場合もそうなれるようなキッカケがあると私は考える。

では、そのキッカケがずっと来なかった場合、どうだろう。
勝ちに嫌がらせをするかもしれない。私たちのストーカーになるかもしれない。もしくは、自〇するかもしれない。
これらは歪んだ愛と呼称されるが、何をもって歪んでいると言えるのだろう。
それらは勝ちの作り上げた価値観なのかもしれないし、本当に歪んでいる呼んでも差し支えないのかもしれない。
私たちは生きていくうえで安心して生活できることが重要であるため、その観点では不快感や恐怖を感じる好意を歪んでいると呼ぶのかもしれない。

そういう引きずっている状態に対して”終わったことは気にするな”と言われることもあるだろう。
それについて、私たちというたった1人に人生を懸けるほどの想いがあるのにそう簡単に気にしなくなれる、忘れられるはずがない、私は思う。
それこそ、気にしなくなれるほどのキッカケがない限りは限りなく難しいことであると思う。

続けて、辛いことは解決しなければいけないのかという話について。
私は"解決しなければならない"ことはないと思う。
無理やり解決しようとしなくていいと思う。
そうしようとすればするほど負荷がかかって崩落してしまう可能性が高いだろう。
だから私は"いずれ解決できる時がくるかもしれない"その時まで、たくさん悩んで迷って想いを馳せていていいと思う。
そのため、"いつかこの悲しみが笑い話にできる時までー。"という表現は心持ちとして非常に共感が得られる。
ただ、"その時"は来ない可能性もある。
それでも、"いずれ解決できる時がくるかもしれない"と思える時点で悲しみは少しでも緩和できていると考えられる。

内容3:私一個人の考え

話を戻す。
勝ちを得られれば負けた側の想いはどうでもいいのだろうか。
例えば、自分がハイリスクハイリターンのことに臨むとき、周りの心配はどうでもいいのだろうか。
そうじゃない側の想いはどうでもいいのだろうか。

だが、そんなことを言っていては何もできなくなる。
私たちは選択を強いられる。
選択肢が無くとも必ずそうじゃない側が生まれてしまう。
私たちは私たちの望むように私たちの人生を設計し歩んでいく。
だから、私たちは得られる最大限の価値を得ようとする。
そうじゃない側を多少受け入れる時も大胆に押し退ける必要も出てくる。

”他人の価値観を自分の価値観で測ろうとするな”、"自分の価値観を他人に押し付けるな"とよく言われるが、結局は自分の価値観しか十分に分からないため”他人の価値観も自分の価値観で測ることしかできない”と考えている。
だから衝突が起きる。
そのため、違うものは違うものとして認識し、それを自分でどう処理していくかが大事であると思う。

ここまでは現実に即した話。

ここからはフィクションの話。

フィクションにおいてはそうじゃない側を考慮する必要があると思うし、多くの作家はそうしているだろうと思っている。
作り手次第なので他作品に何も言うことはできないが、私が物語を制作する時、そうじゃない側の心情や言動は意識するべきだと考えている。
そうでなければ、そうじゃない側の強い想いはあまりにも残酷であると感じてしまうからだ。

最後に

ここまで読んでいただきありがとうございます。
内容は日記内と同様に支離滅裂かもしれない。
それでも書き残すべきだと思った。
最後は登場人物に対する私の思いであり、非常に感情的な内容だ。
どうしても無下にはできない事実だと感じてしまったからだ。

以上、コラム:そうじゃない側の想い
これを読んだあなたはどのように考えますか?



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