日記#235#236

#235 3月22日

今日は自分を顧みて感じた事がある。
私は典型的な”身近な人に対して頑張れるが、自分に対して頑張れない人間”だと感じた。
身近な人が困っている時には相談したりフォローすることが多い。
反面、自分のことになると頭が真っ白になったり、モチベーションが急に低くなる。

理由を考えてみたが、
身近な人のために頑張る時、そこには明確な問題と解答がある。
自分のために頑張る時、そこには明確な問題と実現できない解答がある。

身近な人のために頑張る時は、今自分にできる範囲で彼・彼女らの困難を和らげる方法があるかを考える。
明確な問題に対して、できる範囲で解答を見出し、実行する。
足りない要素は問題が解消されるまでに集めればいい。
そういう精神で、割と気楽に実行に移せる。

一方、自分のために頑張る時は、これから実現したい高い目標が問題の解答になっていることが多い。
例えば、”ある音楽にアニメーションを付けるのはどうだろうか”という問題があったとする。
その問題の解答は”自分でアニメーションを作成する”だが、あいにく私は人生で一度もアニメーション作成を行ったことがない。
そのため、”アニメーション作成を作成する”という解答の前に”アニメーションが作成できるようになる”という数年かかる高い目標が発生する。
特に年齢が上がれば上がるほど、自分の中の理想の形が高度になっていく。
そして、今できることと目標とその先の解答とのギャップで足がすくむ。

できないことに対する重圧が気力を削ぐ。
やるべきことは明確なのに手は伸びないし、足は進まない。

自分のために頑張る場合、どうしても”今できる範囲かそこかほんの少しだけ広い範囲”を対象として考えることができない。
逆に言うと、”今できる範囲かそこかほんの少しだけ広い範囲”を対象として自分のためになることを考えていくことの方がいいのかもしれない。
しかし、そういう考え方の癖がついていない現状はかなり苦労してしまうだろう。

最も、自分を他人のように扱えれば一番手っ取り早いのかもしれないが、それもまた難しいのが現状だ。
それは自分の最高潮の調子を知っているからこそ顕著に感じるものである。

#236 3月23日

今日は何回か寝て起きてを繰り返していた。
昨日の情緒を引きずってしまったようだった。

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