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理性的に生きることはつまらないかもしれない

友人Aの話

「何が正しいか、自分がどうありたいか分からない」
ある日私はAの恋愛話を聞いていた。
私は自分の意見を前のめりに言いながら、
私は自分がAの認知と行動を変えようとしていることに気づいた。
学んだ認知行動療法の知識を当てはめて快感を得ようとしていたのかもしれない。
理性的な方に。良い人生のために。将来のために。
他人の行動は変えられないと知っているのに。

私は認知行動療法を学んで、確かに生きやすくなった。
自分を傷つける認知や
醜くて恥ずかしい、でも人間らしい行動に気づいて
考え直したり、寄り添ったりできるようになったから。

でもそれが正解かどうか決めるのも、
そもそも正解を求めるかどうかも個人の自由だ。

そう思いながら、頭によぎったのは『芸術』だった。
私が、『理性的に生きること』と同じくらい憧れる『芸術』のことが、皮肉にもよぎってしまった。

理性的な一つの解を言いながらよぎった芸術のこと。

きっかけはAの言葉だった。
「自分が聞きたかったことはたくさんあったけど、彼女が楽しそうに笑うのを見てたら、何も言えなくなってしまった。なぜかは分からなかった」

そこにはCBT的な科学はないが、情緒的な美しさがあった。
私が憧れている『芸術』的要素があった。

恥の多い生涯を送って来ました。(中略)
自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。


自分は、いったい幸福なのでしょうか。

『人間失格』太宰治より

私が美しいと思うのは、人間の醜さや恥ずかしさ、恐怖や不安、欲、曖昧さなどの『人間らしさ』を真っ直ぐ感じられた時だ。
私は、太宰治が書く文章やゴッホの描く絵自体には、そこまで良さが分からないのだが(有識者に怒られそう)、それらの作品を残しながら生きた彼らの人生に『芸術』的な魅力を感じる。

昨日のAの一言を聞いて、AやAの彼女の『人間らしさ』を美しいと感じた。

洗練されていくことは少し寂しい

尊敬する精神科医の先生に相談した時のことを思い出す。
「希望を持ってもらいたいのはダメなことですか。(少なくとも私はあなたのことを大事だと思っている、そう伝えるのは意味がないのか。幸せになってほしい、そんな母性のような気持ちって看護の大事な部分としてあるのでは)」と相談した時に、

「そうやってもがいているのを見るのもおじさん達の心をくすぐるんだよ。
無駄がなくなって洗練されていくのは、素晴らしいけど面白さはないよね。」
的なことを言われたことを思い出した。

振り返った時に、苦笑いするくらいの私も大事にしたい。

人生をよりよくしたい
そのために理性的に行動分析をして、損よりも得の多い行動を取ることが経験による『学習』であり、『成長』なのかも知れない。
でもそこにはどうも面白さはなさそうだ。あまりにもつまらない。

どうしようもない感情に抗えずに
思い通りに行かない自分
そんな自分も忘れずにいたい。
その方が私は面白いから。

2023.5.20 昨日の私に苦笑いしながら。



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