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lesson 6 読書の縦軸

 なぜか私を「読書家」だと思う人がたまにいる。読書ブログを書いているせいでそう思われるのだが、まさか。そんなに読んでいない。

 人が思うほど読んでいないばかりか、質・量ともに、自分がこのくらいは読みたいと思うほども読めていない。ほんとはもっとココロザシが高いんです、なんて言い訳をしたくなる。

 だから「何かオススメない?」などと突然聞かれると大変怯む。ただのオススメならAmazonのオススメでいいのだから、その人が求めている期待を感じて怖気づく。

 いやそんなに知らないんですよ、新刊とか全然チェックしないし、興味のある本しか読まないんで、などと言いながら、あたふたと、必死に逃れる。

  有能な書店員さんのように「お好きなジャンルはありますか?」と切り返すとか、「今のあなたに必要なのはこの一冊」とドラえもんのごとく懐から取り出せればよいのだが、そんなことはできない。

 確かに読書は好きだ。三度の飯より好きかもしれない。生きていかねばならないので、その気持ちは普段日常生活の中に埋没させているが、ものすごく、好きだ。でも実際、メシは日に三度きっちり食べているし、大きな声では言いたくないが、あまり好まないジャンルはまるまる空白だ。もし神様に日がな一日、読書ばかりしていいと言われても、たぶん飽きると思う。実に手前勝手な「好き」だ。

 しかしそれにしても息子が、本を読まない。

 今時の子供だ。皆そうなのだ。今の媒体のすべて、コンテンツのすべてが悪いとは思わない。動画でもアニメでも、質の高いものは残っていくだろうし、今の時代の本のすべてが良質だとも思わない。

 私が子供の頃は「漫画を読むと頭が悪くなる」と半ば本気で言われていた。その前の時代は、まともな本すら悪書と言われた時代がある。時代の変遷とともに、子供が享受する文化の形が変わっていくのは当然だ。

 だとしてもやはり、子供には本を読んでほしい。こんなに自由に本が読める時代もないのだから。もったいない、と思う。

 ママ友に聞くと、読む子は読むが、読まない子は動画に引っ張られているらしい。やはり、そうか。

 私の読書は、もともと現実逃避の読書だ。つきつめれば子供のゲームや動画と変わらない部分もある。だから子供を責められない。しかしながら多聞にもれず私もゲームや動画はダメだと子供を責める。本を読め、と迫る。あなたのため、とか言ってしまう。

 「読め」と言われて読む本ほど面白くないものはない。読書感想文の課題図書がいい例だ。どんなに面白い本でも面白いと思えなくなる呪文が「これを読みなさい」だ。それを知っているのに、言ってしまう。本だけが教養を養ってくれる、とかなんとか、呪文を唱え始める。そんなことを言われたら子供がどう思うかくらい、昔子供だったから知っている。にもかかわらず、言ってしまう。

 年とともに、読んだ端から記憶が抜け落ちていく自分がいる。瑞々しい感性で言葉を味わいつつ、貪欲に知識を求め、吸収するには、若さは必要な要素だと実感する。だからこそ、必要以上に子供に呪文を唱えてしまうのだ。

 そんな私が、最近座右の銘にしている言葉がある。

「同じ本を読む人は遠くにいる」

読書猿さん『独学大全』で知った言葉だ。この言葉に、ずいぶん励まされている。読書猿さんはこの本で「太古の昔から人生かけて学んだ人の本をあなた今読めるんだから、すごいことですよ。人間、知らないことばっかりなんだから、生涯学んでいくんだよ」と背中を押してくれる。読書こそ学びの神髄だと、教えてくれる。

 そして今、近くに理解者がいなくても、自分が孤独だと感じても、距離的に遠くで、あるいは時間を超えて、同じ本に共感する人がいることを、思い出させてくれる。

 たとえば図書館で私が手に取った1冊の本は、昔親が読んだかもしれないし、将来孫が読むかもしれない。今目の前のその本を手に取れる横軸の人だけではなく、縦軸がある。その視座を手に入れたとき、読書の捉え方がぐんと広がった。

 子供の人生は子どものもの。私ができることは、ただ「いつか」と願うことだけだ。いつか我が家の本棚で、あるいは、いつかどこかの図書館や書店で、ネットの中で、中年や老人になった息子が、私がかつて読んだ同じその本を手に取るかもしれない。同じところに共感してもしなくても、そこには読書の縦軸が生まれるだろう。

 そんなわけで最近は、できるだけ「読め」という呪文を唱えないように頑張っている。まあ、言ってしまうのだが、なるべく言わないように意識している。なるべく。できるだけ。可能な限り…

 誰か私に「その言葉を言わない」呪文をかけてくれないだろうか。












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