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practice 2  盆栽

 ある一定の長さの文章を書いたのちに、読み返す。それはどんな文章に対しても当然、行われる作業だ。

 私はこれが無類に好きだ。子供の頃は自分の文章を読み返すのが苦痛だったが、いつからかまたこれも、報酬系を刺激する行動になったらしい。

 自分の文章と言うのは不思議なもので、誤字脱字には意外と気づきにくい。だから何度読み返しても最後まで誤字があったりする。私が好きなのは「主語の位置」「助詞」「句読点位置」「言い回し」「言葉自体」「比喩」などをあちこちいじることだ。

 この作業を、私は「盆栽」と呼んでいる。

 大学時代にワードプロセッサというものを使うようになってからは、文章を丸ごと削除したり移動したり、コピーしたりということができるようになって、格段に「盆栽」が楽になった。

 それ以前は、消しゴムで消す、赤ペンで傍線を引いたり丸で囲ったりして矢印で移動場所を示す、線で字を打ち消して隣に訂正文を書くなど、とにかく原稿用紙がグッチャグチャだった。消しゴムの消費量も消しゴムのカスも大量になったものだ。

 位置を変えるだけ、助詞を変えるだけ、対比や倒置の順番を変えるだけでも文章は読みやすくなったり、より平易な表現になったりする。

 パチン、パチンと体裁を整えていく盆栽のように、パチン、パチンと文章に手を入れる。

 盆栽と違うのは、盆栽は切ったらもとには戻せないが、文章は削ったり付け足したりできることだ。また、盆栽は相手が成長し姿を変えるものであるのに対し、文章そのものは変化しない。ただ、昔の文章を読むと、自分の感じ方や考え方の変遷がそこに見え、自分の成長を感じたりする。

 時には「こんな文章書いたっけ?」などというものもあったりして、記憶喪失の人が初めて読むように自分の文章に対峙することもある。「なんだこれ。駄文!」、と思うものもあれば、「うわ、何これ面白いわ、誰が書いたん?」みたいなこともある。

 ちなみに、私はOSがWindowsなのでずっとWordを使っている。Wordの進化も甚だしい。クラウドになってますます保存が楽だ。しかし、目下のところ問題はその保存だ。ちょっと直しただけでうっかり保存してしまったコピーがずらりと並んでしまい、どれが最終形態かわからない。いくら誰にも見せないとはいえ、自分が混乱する。

永久の未完成これ完成である

 敬愛する宮沢賢治の言葉を信条にしつつ、今日も私は、盆栽に励む。




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