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コロナ禍とおじい。

もうずいぶん前に鬼籍の人になってしまったが
母方のおじいは小児科の開業医をしていた。

物心ついた頃にはもう名医で有名になっていて
知る人ぞ知る「毒ぶどう酒事件」の一報を受け、治療従事した地元医師のなかにおじいが含まれていた…というエピソードを持っている。


かの有名な日野原先生はよど号に乗っていた1人だがおじいのエピソードもなかなかの濃さではないかと思う。

田舎町の開業医だったけど、
朝からおじいの診察を待つ人々の列は長く遠く離れた駅前まで続いていた。
小さな頃、夏休みなどに帰省すると姉と私の小さな姉妹は二階の物置の小窓から順番を取るために並ぶ母親たちの列を覗き見て

「おじいちゃんすごいな。アリの行列みたいや。」
と言ったものである

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日曜日の朝、
姉と私とおじいの3人で河原を散歩していると

「せんせーい!せんせーい!」
と大きな声で呼びながら走ってくるおばちゃん。
サンダル姿にパジャマ姿。
すこぶる足の回転は遅かった。声はするけど近くまでくるのになかなかの時間がかかった。


息を切らしながら姉と私それぞれに手渡してくれた茶色の紙袋にはたくさんのお菓子が入っていた。


河原を散歩しているおじいを見つけて慌てて走ってきたお菓子屋のおばちゃんだった。

孫を連れているからとお菓子を紙袋に急いで入れたらしかった。
近くで姉を見て「あ!」っとなっていたのは遠目で男の子だと思ったらしい。グリコの男の子用のキャラメルが入っていた。
おばちゃんは終始申し訳なさそうにしていた。

そんなふうにおじいはたくさんの子どもの命を救いたくさんの人に慕われていたが、
死ぬ間際に本当は研究者になるつもりだったと話してくれた。

ヨーロッパへ留学する予定だったが、長男であるが故、稼ぎ頭でもあり自分の意思を持つことも許されず、文字通り親に泣きすがられてどこにも行けず開業医になったのだ。

☆☆☆

おじいはバンカラで有名な松山高等学校の出身である。三重の田舎町で子供の頃にジフテリアで死にかけたところ助けてもらったことで医者になると田舎町から遠く離れた松山で青春時代を過ごした。

おじいの青春は松山にあった。
いつもお風呂で松山高等学校の寮歌を歌ってくれるので私たちも同じように

「暁雲こむる東明の(ぎょううんこむるしののめの)
金色の扉開けゆけば(こんじきのとびらあけゆけば)」
と拳を振りながら歌うと嬉しそうにしていた。


松山高等学校時代に実家が倒産して学費の工面を自分でするか、松山高等学校を退学するかの選択に迫られたことも今のコロナ禍の困窮大学生と共通する。

結果的に成績優秀だったので、
愛媛県知事さんのお嬢さんの家庭教師を紹介して
もらいお金を稼いで苦学して松山高等学校を卒業したらしい。

その後、大阪大学医学部に入学して今で言う給付型奨学金(恩賜とおじいは言っていた)をもらって医学の勉強をした。爪の垢はどうした!というほどの努力家で勉強家である。

イタリアで感染爆発が起こった時、
医学生を1年早く繰り上げ卒業させて現場に…ということがあったようだが、おじいもまた戦争で1年早く繰り上げ卒業になり南方へ軍医として赴いていた。

若い貴重な大学生活の1年を戦争に奪われ
研修期間など皆無、いきなり阿鼻叫喚の現場。
若き陸軍軍医はほとんど玉砕の島から奇跡的に生還したのだ。


私はおじいが生きててくれてよかったと思っていたが戦争から生還した人々の心は複雑だったようだ。
体験したものにしかわからない、誰とも分かち合えない心の傷をずっと持っていたような気がする。

コロナで起こるエピソードの数々が、
おじいを想い出させる。
ジャングルを軍靴で歩き回った足には水虫ができていて、

おじいの布団に潜り込んだ時のバリバリカカトの感触やおじいの匂いまで鮮明に思い出すのだ。
それらのすべてが好きだった。

ひとりの人間の中にはたくさんのエピソードがあり
ここでは書ききれないほどの人生模様の
エピソードのひとつひとつを愛おしく思う。

誰かに愛されて愛した記憶は今でも私を支える柱になっているし、おじいの人生を想うと心がギュッとなっておじいの魂を真綿にくるんで愛をたっぷり注ぎたいとさえ思う。

また逢いたい…

とても逢いたい…

叶わないことを切なく想う。

コロナウイルスは思わぬところで記憶の蓋を開けてくる。悪いウイルスである。




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