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星よりひそかに

なにかが足りないけれどなにが足りないのかわからないと思ってしまう夜には、たいてい男が足りていない。

***

飲み会帰りに、すこし人恋しくなったので彼に連絡してみる。今夜の予定や気分を知りうるほどの距離感ではないから、こういう連絡は一種の賭けなのだけれど、薄く酔った頭は勝算があると弾き出したので、わたしは都合よくその酔いに身を任せる。

平生返信が早い方ではない彼なのに、今日は珍しくすぐにiPhoneが震え、十数分後には彼の車が夜道で白く光った。タイミングや熱量の合う合わないを、偶然の産物でしかないとは思わない。

ふたりで何度か星を見に行ったビーチは徒歩圏内だったけれど、せっかくだから、と彼は車を走らせて、もうすこし空が広く見える海辺を目指す。起伏や湾曲の多い道を丁寧になぞってゆく彼の隣で、わたしは安心して彼の横顔を眺める。彼の通った鼻筋や頤のラインは、ときどきはっとするほどうつくしい。


浜辺の少し手前で車を停めて、ヘッドライトが消えると漆黒の闇が広がる。エンジン音が響かなくなったあとは、かすかな波の音と、夜の気配だけが静かに、けれどたしかにわたしたちの周りに息づいていた。文目も分かぬ夜におそるおそる足を踏み出したら、肩に彼の手が触れて、「連れていってよ」と低い声が笑う。手を引いてもらえないと歩けないような女ではないしそう思ってほしくもないから、わたしは肩に彼の手のひらを乗せたまま、探り探り小道を辿る。

闇に目が馴染んでくると、夜がすこし心を開いてくれたような気がして嬉しくなる。纏わりつくような夜気に紛れて彼の手を探ったら、ちゃんと掬い取ってくれるのでわたしはまた安心する。並んで歩くときは男の左側でないと落ち着かないし、手をつなぐときは後ろから手を回す形でないとうまく歩けない。一方彼は、右側を歩いて前から手を掬うポジショニングがデフォルトだというので、すべて世はこともなし。

「そういえば、手をつなぐときに恋人つなぎ以外ってしないよな」と彼が独り言のように呟き、わたしは戯れるように4指を揃えるつなぎ方に変えてみる。「小学生の遠足みたいだ」とどちらともなく噴き出したけれど、数分のうちに違和感はなくなっていた。彼は手が綺麗で、わたしはその手に触れるのがとても好きだ。

砂浜に彼が柔らかなレジャーシートを広げてくれて、わたしたちは性急に唇を求め合ったこれまでの夜よりはすこしだけ余裕を持って並んで横たわり、満天の星空を見上げる。寄せては返す波音の中、流星群の夜でもないのに星は多く流れ、お互いに見つけた個数を競い合った。

彼が単純に星空の美しさを愛でているのか、それともわたしと過ごす時間に何らかの価値を見出しているのか、あるいはただ人恋しくなっただけなのか、正しい答えなど知らないけれど、やがて星の代わりに降り注ぎはじめたキスはやっぱりいつものようにすこしずつ熱を孕み、わたしはその熱に集中したくて思考を止めてしまう。彼は夜空からわたしを隠すように覆いかぶさり、やがてわたしの視界を埋め尽くす。


帰り道、「うちに来る?」と彼はよく統制されたさりげなさで問い、わたしは儀礼的な逡巡の仕草ののちに肯定を返す。


***


ぐちゃぐちゃに濡れたキスをしながら縺れあうようにベッドに倒れこんでおきながら、やがて顔を離した彼の唇は、とりとめのない話を紡ぎはじめる。ふたりの間の温度が上がりすぎていると感じたとき、彼はよくこうして、熱を逃がすような逡巡を見せる。その覚悟のなさを笑うつもりはないけれど、わたしはどちらかというとはやく熱の中に逃げ込んでしまいたくて、煽るように唇で彼の鎖骨から首筋を辿り、耳朶をなぞった。その耳の中に相槌を吹き込んでいるうちに、彼はすこしずつ言葉尻を泳がせるようになる。わたしたちは、臆病で、ずるくて、そして、流されやすい。


彼は、衒いも照れもない触れ方をするくせに、わたしが触れようとするとこっそりと薄い能面をかぶってしまうので、早くその能面を剥がしたい。抱くときにはゼロ距離で等身大の熱を注ぎこむように抱いてわたしを逃げられなくさせるのだから、わたしが触れるときにも距離を取らないでほしい。

わたしで気持ちよくなってくれる男が好きだし、気持ちいいときに気持ちいいとちゃんと言ってくれる男が好きだ。わたしが息を乱しながら泣きそうな声でそれでも伝える「きもちいい」は、「あなたもきもちいい?」を多分に含意している。わたしの触れ方は真似してくるのだから、わたしの反応もちゃんと真似してほしい。

わたしが触れても舐めても何食わぬ顔で声も立てずにやりすごそうとする彼に、顔をきちんと歪ませることや、適切に「気持ちいい」をこぼすことを教え込むことが、わたしの直近の目標だ。すこしずつ、すこしずつでいい。パラダイムシフトは疲れるから。


セックスはロールプレイだから、内に籠られるとやりとりが途絶してしまう。やりとりが途絶すると、わたしはわたしに飲み込まれてしまう。わたしがわたしに飲み込まれたら、ここでわたしに触れているのが彼でなくてもよくなってしまう。

わたしはいま、わたしに触れているのが彼でないと嫌だ。


***


数日後、友人たちを交えて1日出かけたあとに、彼は車でわたしを家まで送ってくれた。別れ際に一瞬絡んだ視線は、また熱を逃がすように解け、さりとて絡め直すほどの熱がわたしの中に滾っているわけでもない。

性的に淡白な顔ができる男を相手にすると、セックス以外の部分でも求められているのではないかと錯覚しそうになるのでよくない。寝たことのある男が寝ずに帰った夜があったからといって、そこに愛を仮託するほど初心にはもうなれない。


これまでずっと、付き合う男との間にあるのはただしい温度だったし、寝る男との間にあるのはただの湿度だった。でも、安心感と性欲の混合物は生ぬるく湿っていて、恋愛感情と一見よく似ているので、ちゃんと目を凝らしていないと混同してしまいそうになる。

ずっと、ベッドの上でしか好きだと言えない女だったけれど、わたしはまだ、ベッドの上でさえ彼に好きだと言えない。「触れたい」なら分かるし、「傍にいたい」という感情も知っている。けれど、彼の前で「好き」という音に乗せるべき意味をわたしはまだ知りたくないから、意味をもたない音を噴きこぼすこと自体に尻込みしてしまう。彼の喉の奥に潜んでいるその二文字の気配がキスに乗って流し込まれることすらも、わたしは見て見ぬふりをしている。


***


さらに数日後、酔ったわたしに彼が、宥めるようにいなすように「好きだよ」と言った気がするけれど、それも夢と現の間隙にそっと滑り込ませてしまった。

けれど、そう毎度毎度同じ台詞で釣られる女だと思わないでほしいと思いながらも、わたしはたぶんずっと、彼が時折気まぐれを装っては送ってくる「星が綺麗ですね」というメッセージに潜む意味を、ほんとうはちゃんと理解していた。





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