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闇はあやなし

あなたが、わたしのことを好きだと言う。遠い、遠いところで。

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Episode 10. Spring and Summer, 2019 ver.2

距離が離れたころ、何が辛くて何が苦しくて何に救われていたのか、今となってはもうよくわからない。ただ絶え間なく続いてゆく日々の中で、当たり前のようにおはようやおやすみを送り合うのが嬉しかったこと。ただ電話口で啜り泣いていればあなたがわたしへ向けた言葉をひたすらに語って安心させてくれたこと。それだけが記憶に刻まれている。

「愛されている」と感じるのは、相手がわたしに向けて言葉を紡いでくれているときだ。酔ったあなたがわたしにこぼす言葉が、本音なのか酒の勢いなのかはいまだに知らない。それでも、それらすべてが、わたしにとってはあたたかい言葉だ。だからあなたといると安心する。あなたは言葉の豊かなひとだから。

環境が変われば男の好みも変わるのだろうか。かつてすべてを共有していたやさしいひとに、感情を共有しつづけることが次第に面倒になった。都合の良さだけを愛であっていたはずのあなたとは、都合の悪さも含めておそるおそるぶつけ合うようになった。あなたは、わたしのやり方で愛させてくれるひとだし、それを愛だと認識してくれるひとだ。あなたはわたしがこう扱ってほしいと願うように扱ってくれるひとだ。けれど、「こういうふうに扱われると嬉しい」を伝えてしまったから演じてくれているだけなのではないかと、たまに思ったりもする。

昔からあなたはわたしに甘かったけれど、甘さの質がすこし変わった。よりあたたかく、より切実に。あなたに強引に抱かれるのも好きだったのだけれど、あなたの優しさに触れるのも好きだ、と思う。あなたには失礼な話かもしれないけれど、あなたの声を聞きながら眠ることには、安堵にゆるやかに首を絞められるような多幸感がある。とりとめのない話をゆっくりとつづけるあなたが、「眠ってしまっていいよ」などと囁くので、寂しいわたしはつい甘えてしまう。直接会って聞くのよりもすこしセクシーな声が、電波に乗ってわたしの耳に届く。浮遊しかける意識が最後に捉えたのが「あいたいね」だったのは夢なのか現なのか、わたしは知らない。

あなたは、わたしが議論をふっかけても駄々をこねても喃語で甘えても、適切に応えてくれる。「眠いときにひらがな多めで喋るところ、好きだよ」と言われて、わたしもあなたに見せる顔をそれなりに変容させていることを自覚する。わたしの歌っているときと抱かれているときの声の甘ったるさを指摘した男は何人かいるけれど、わたしが睡魔に負けそうなときの声を知る相手など極めて限られている。

「お前で抜いた」は嬉しいし、睡眠導入剤がわりの自慰を自室のデスクでするひとだと知るのも嬉しい。「素直になれば可愛い女だよ、お前は」という睦言を真に受けたら終わりだと思いながらも、「あなたの好きなものの話が聞きたい」はそのまま伝えてしまった。「立ちバック、クンニ、組み伏せること、お前」などとまたわたしの心の柔らかな部分に食い込むような答えが返ってきて、離れたことでこんなにもストレートな愛の言葉が聞けるなら、離れたことすらも正解だったのかもしれないと思った。

こうして電話を繋ぎながら寝落ちする日々はそれはそれで平穏だけれど、そういうあなたの優しさに安心しているのか、距離が開いたことに安心しているのかはわからない。かつてあなたが「結婚してくれよ」と戯言めかした救難信号を零しながらわたしを抱いたとき、快感に塗りつぶされてゆく知覚野の遠景に見えなくなりかけていたわたしの心のどこか冷たいままの部分がなにか危険を示すかのように明滅しはじめて、どうにも集中できなくなったことを今でも覚えている。わたしはたぶん、わたしのあなたに対する諦めが失われてしまうことをまだ恐れている。

信じかけたときに裏切られる、とか、委ねかけたときにふいっと逸らされる、とか、そういうのがいちばん心を痛めつけるから、半歩さえ容易くは踏み出せない女になってしまった。深夜だろうが明け方だろうが、あなたからのLINEにも電話にも応えられる限り応えてきたけれど、自分からは、声が聞きたい、さえ言えない女だ。たとえばあなたは、好きな女から「声が聞きたい」と言われたら嬉しいのだろうか、などと考えてみたりもするけれど、そもそも「好きな女」という前提の時点で懐疑的なわたしに救いはない。こうやって伝えもしない叶えられない駄々を積み重ねて、わたしは人間不信のままだ。

なにもかも飛び越えた、身体だけなら平気なくせに。

***

深夜の電話であなたが「勝手にしやがれ」を延々鼻歌うのを、くすくす笑いながら聴いている。まだお互いに、「24時以降に吐く愛の言葉なんぞすべて戯言だよ」「わたしがどんな人間かくらい知ってるでしょう」という強がりが言える温度だ。本来好きな男を上手にいなすのは難しいのに、今あなたと寂しい夜ごとにこんな応酬を繰り返せるのは、お互いがお遊びの範疇をきちんと認識しているからだ。わたしは、ひとが破滅していくところを見るのが好きではない。「俺はお前を待っているかもしれないし待っていないかもしれないから、お前は自由にしろよ」が、あなたがわたしにくれたもっとも貴い優しさだったと思っている。

「面倒なら面倒だと言えよ」と強がるあなたが好きだし、最後の最後であなたを強がらせるその諦念混じりの冷静さが好きだ。あなたの冷めた核の部分を丁寧に舐めたい。わたしは狂われると醒めてしまう。それはきっと、わたし自身どんなに狂ったような顔をしていても、頭のどこかを狂えずに残しているせいなのだろう。相手の頭のどこかが狂わずに残っているのを感じると安心する。相手の軸足がただしく陸地を踏みしめていると安心する。すべて狂われてしまうと不安になる。不安はわたしを醒めさせる。

歳を重ねた男は人生の長さを知っているので、感情の最大瞬間風速でわたしを不快にさせたりしない。嵐のときに避難できる港のような、solidでrigidでstableな存在でありつづけてくれる。わたしはそれをこそ、持続可能性と呼ぶ。

もっと距離が近かったころ、あなたは3ヶ月に1回ペースでわたしが目を合わせずに口にする「好き」というただその一言だけでわたしへの細く長い執着を保ち続けてくれたから、わたしはあなたのその燃費の良さに随分救われていた。しれっと距離を離したわたしにあなたは、「燃費のいい女だな」と奇しくもわたしがかつてあなたにあてたのと同じ形容をしたけれど、おそらくお互いに、炭壺で感情の管理をしているのだろうと思う。燃やそうと思えばいつでも燃やせるし、忘れていようと思えば忘れていられる埋火のように。

「この人がいないと生きていけない」という相手などいない。「ここにあの人がいればな」という相手がいるだけだ。

「いちご大福が食べたい」
「甘いもの好きねえ」
「お前も甘いよ、脇が」

あなたは案外に甘いものを好むことを知ったから、誕生日にはわたしの好きなショコラブランドのトリュフを贈ろうと思う。わたしの脇の甘さは、あなたに付け込まれたいからだった。「俺はお前に甘えてばかりだったな」とあなたは言うけれど、あなたがわたしに見せる甘えが好きだった。酔ったあなたは、「いつかお前と一緒に生きたいと思うよ」なんて甘すぎる信仰の告白をするから、今夜もわたしはそこに飛び込みたくなってしまう。「どんなお前でもいいし、そんなお前がいいんだよ」はずるすぎる。わたしはもうずっと前から、そんなあなたのことが好きだから。

***

「好きだ」などと認めてしまったが最後、心はあっさりと本音を漏らしてしまうらしい。ぐずぐずに酔って、ほかの男と濡れきったキスを数え切れないほど交わしたあとの丑三つ時に、あなたに「好き」などと送りつけてしまっていて草も生えない。距離を取りたがるわたしは、そんなメッセージを塗りつぶすように、ほかの男に抱かれたことをあっさりとあなたに伝えてしまう。結局のところこれも試し行動にすぎないのだろう。

あなたから夜更けに、「やっぱりお前が他の男に抱かれた話は聞きたくない」とLINEが来ていた。どうしようもなくうれしくて、同時にすこし冷える。あなたがいないと生きていけないと思った夜はいくつもあったけれど、あなただけでは生きていけないわたしをこれまであなたは決してわがままだとは言わなかった。

「お前が誰と寝ていようが咎める権利は俺にはないが、なぜ殊更に口にした」と問われて、「あなたがわたしをかつて揶揄した言葉がその言葉のまま実現したらどんな顔をするのか知りたかったから」と答えた。底意地の悪い女だな、と思う。あなたとわたしとのあいだのそういう揶揄はおそらく、相手を尊重するが故の儀礼であると同時に、相手の退路を断たない優しさでもあったはずだから。

「俺に独占欲がないとお前が思っているなら、俺の伝え方が悪かった」とあなたは言うけれど、わたしはほんとうはずっと、その独占欲こそが見たかったのかもしれない。あなたがわたしにその独占欲を見せるかどうかが知りたかった。見てしまったら醒めてゆくしかないことを知悉しているのに。

「俺のことを好きでいてくれるんじゃないかと錯覚したんだよ」とあなたは言った。「好きだよ」とわたしは返した。あなたが過去にわたしに落としてきた軽い「好き」と同じ程度の重さに聞こえますようにと願いながら、声のトーンを調整する。それが、あなたが今わたしに向けている声の切実さと等価ではないとしても。「好きだと言ってしまった俺の負けだな」と自嘲するあなたは、わたしと同じく、勝ち負けのある恋愛しかしたことのない男だし、わたしたちはおそらくもう両方負けている。

「好きだ」「そばにいてほしい」を通奏低音に、「変容して悪かった」「執着しない男を装えなくなってきた」「お前はもう離れたいんだろう」「俺に飽きたんだろう」「俺が嫌いか」「俺が好きじゃないのか」の変奏を織り交ぜて奏でられる声音を、聞くともなく聞いた。ストレートに好きだと言われたときに素直に返す言葉を持てないのは昔から変わらない。けれど「俺はお前のコンプリートリストの中のone of themになるんだろうな」というため息だけは外れていて、わたしはきっと一生、あなたを征服した気にはならないだろう。

「お前は追えば逃げる、分かってた」とこぼしたすぐあとに、「いや、変わったのは俺だな。俺が変わらなければお前は逃げなかった」とあなたは自省する。あなたはシリアスな話をしかけると途端にわたしが黙り込むことをよく知っていて、沈黙を嫌うようにおどけてみせるけれど、それが演技だと分かってしまう程度には、わたしはずっとあなたの顔色を見てきた。わたしたちはきっと長らく、お互いにとっての何者でもないふりをしてきたのだろう。「お前は俺みたいな陽炎が好きなのか」とあなたは結局苦笑した。陽炎でも残滓でも構わないけれど願うのは多分ひとつで、「醜くならないで」だ。

***

あなたが早々に酔っていた夜、途中まではいつものごとく戯言をやり取りしていたけれど、そのあとのわたしの駄々には返事がなかった。誰かと眠っているのだろうか、とぼんやりと思ったら喉の奥があつくなった。二度と恋のために泣かないと決めたので、これは、夜空に星が多すぎるせいだと思う。

翌朝、やっぱりあなたが行きずりの女と寝たらしい気配がして、隠そうと思えばいくらでも隠せることを殊更に匂わせるあなたを、すこし可愛いと思う。目の前の女の「わたしでなさ」によりわたしを感じて寂しくなっているらしいあなたの言葉尻に、胸がちいさく躍る。離婚騒動の渦中の一部始終だとか、痛飲して朝起きたら他の女が隣にいたことだとかを話しても、わたしが傷つかないと思っているところも、結構好きだ。

実はあっさり傷ついているのだけれど、わたしはその傷を決してあなたに示しはしないだろう。嫉妬はもともとつよくする方だったはずなのに、「最高の二番手の女」を演じることに快感を覚え出してから、嫉妬を殺すことがとても上手くなってしまった。万一嫉妬してほしくて伝えてよこしたのだとしたら、期待には応えられない。ひとりでどんなに泣いたとしても、あなたに剥き出しでぶつけたりなど絶対にしない女だ。長らく「最高の二番手の女」を愛でておいて、今さら嫉妬しろと言われても無理な話だ。

あなたが他の女を抱いているところをたまに想像する。あなたが他の女を抱くことよりも、他の女があなたの寝顔を見ることのほうが嫌だな、と、思うし、あなたが他の女の隣でも無防備に眠れてしまうことはもっと嫌だな、と思う。あなたの寝つきのよさは知っているけれど。

***

この町には梅も桜も咲かない。

春の夜の闇に意味などない。

言葉が届く。顔が見えなくても。
感情の揺らぎが伝わる。温もりに触れられなくても。
わたしなりにあなたのことを思っている。この手で抱き締められなくても。

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