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私は、私を大事にしてくれる人を大事に生きるわ

深夜はときに自制心のタガが外れて、セールになっているわけでもないのにポインテッドトゥのシューズを色違いで2足買った。シルバーと黒エナメル。

今日親友と清澄白河を散策するデートにシルバーをおろしたら、家を出て数分ですでに嫌な予感。清澄白河に着く頃には踵の皮がめくれて真っ赤になってしまった。

コンビニに飛び込んで絆創膏を貼ったけれど靴の固いかかとにプッシュされてすぐにめくれてしまう。また別のコンビニに飛び込んで、メンズ25センチの薄い黒の靴下を買って(不本意だったけどそれしかなかった)、絆創膏を貼ってから履いた。


ダニーロはすごく、遠慮なくどんどん私に色々頼る人だった。それはイタリア人の彼が、彼にとっては異国の日本で頼るのが私ぐらいしかいなかったのもあるだろうし、またはあんな感じがイタリア人の国民性なのか、それとも彼の性格なのか知らないが、その遠慮のなさが私には可愛くて仕方がなかったし、頼まれたことには全部答えてあげたいと思っていた。

急に彼の親戚が初めて日本に来るけど俺は仕事でいないから、アテンドしてやってと頼まれて、貴重な土日を含めて平日も会社帰りに、海外の人が好きそうなところに連れて行ったりして、彼は不在だった。彼は仕事が忙しくて、いないことが多かった。

日本で一緒に暮らしていた頃、彼はどこに行くのも私と一緒がよくて、一人で行けばいいのに深夜サッカーの中継を見に渋谷に何度も連行された。私はサッカーのことは全く知らないし興味もないけれど、日本時間では深夜からキックオフの、彼の推しチームの試合を観るために、渋谷にあるヨーロッパのサッカーの試合を流してくれるスポーツバーに観戦しに行った。そのスポーツバーも頼まれて私が調べたのだが。

夜から渋谷に繰り出して回転寿司を食べて腹を満たし、深夜から始まる試合に備えてインターネットカフェでアラームをセットして一緒に仮眠をとった。床がふわふわのソファみたいになってて、ソフトクリームも食べ放題だし、頼めばブランケットも貸してくれる綺麗なインターネットカフェだった。それも私が綺麗なところを調べたのだが。若かったな。朝方の渋谷の街をカラスが飛び回る中、肩を組んで(というか、彼は歩くときに私の肩を抱くようにして歩くので、とても歩きにくかった)歩いて、そのあと数時間だけ寝て、ちゃんと仕事に行って仕事をしたんだから。

働き者の彼はだいたい帰りが日付が変わるぐらいに遅かったけれど、夜ご飯を一緒に食べたがったので、19時には家にいる私がご飯を炊いて、簡単な煮物やサラダを作ったり、彼はイタリア人なのでトマトソースのパスタを作ったり、疲れてやる気がない日は生ハムとチーズとパンで我慢してもらったこともあったけれど、夕飯を作って待った。私は料理が大嫌いだったけれど。

きっと職場のレストランで、パーティーで使ってあとは捨てるだけのものをもらってきたのかもしれないけれど、新鮮で色とりどりの綺麗で大きなブーケを持って帰って来てくれたこともたびたびあった。

自転車をびゅんびゅん飛ばして帰ってくる彼のほっぺたは外の匂いがした。帰ってすぐにおしゃべりをはじめるので、ついおかえりのキスを忘れると、どちらともなく「なにか忘れてない?」「お前が忘れたんだろ」「あんたでしょ」といってキスをした。行ってらっしゃいの時は彼が先に家を出るので、私が玄関まで出て「Ciao, Buon lavoro(仕事頑張ってね)」と言ってキスをするのがおきまりだったけれど、朝はもっと寝ていたい彼は顔が死んでいた。それに仕事の時の顔になっていた気もする。

私も働いて帰って来て、彼の帰りを待って嫌いな料理をし、たっぷりとたまった洗濯物を回し、洗濯機から取り出して干すあたりで不機嫌になってくると「さっさと終わらせようぜ」といって彼もベランダに来て一緒に干しだす。靴下もさかさま、タオルもぱんぱんと皺を伸ばさないで干すから私がブチギレると、「うるせぇ、お前も早く寝たいだろ」といって喧嘩になった。

私と一緒に寝たいのに、私がドライヤーで髪を乾かすのが遅すぎて待てず、先にうとうと寝てしまう。本当は私と一緒に寝たいから、「そんなの俺が帰ってくる前に済ませておけ」と何度言われても、私はお風呂上りに料理をするのが嫌だった。限界まで私の髪が乾くまで待っているけれど、結局寝てしまうのだった。

深夜12時、日付が変わっても仕事が終わらず帰って来ない日もざらだった。そんな日は作った料理も冷え、私はお風呂も済ませてドライヤーも乾かしたから、今日は一緒におやすみが言えるかなと思っても、彼が疲れ切ってお風呂も入らず臭い足でベッドに寝転んで(汚い足をベッドに上げないでと私が怒るから、足だけベッドの外に出していた)「5分だけ」と言って眠りに落ちてしまう。「絶対起こせよ。水かけてもいいから起こせ」と言われるので5分経って声をかけると、「うるせぇ、fuck you」などと言う。自分が起こせと言ったくせに。もう、くたくたなのはわかるから、このまま寝かせておいてやろうかな、という思いと、やっぱり起こさなきゃという思いが交差して、もう一度「ねえ、起きて!」というと、むっくり起き上がって、さっき帰りに買ってきたカルビーのピザポテトをむさぼり(絶対に私の口にも入れるから、また歯を磨かなきゃいけない)、冷蔵庫に入った2ℓペットボトルのお茶に直接口をつけてごくごく喉を鳴らして飲み(菌が繁殖するからそれはやめてと言っても聞かないので彼専用のペットボトルにしていた)、ちゃんと洗ったのか不安になるくらい短いシャワーを終えて、ベッドに滑り込むのだった。

彼はシフト制で、私は土日休みだったけれど、たまに休みが一緒になると、前日に予定を考えるけど結局彼が昼過ぎまで起きず、彼が激務なのを知っているので起こさずに寝かしておいてやると「なんで起こさないんだ」と怒った。私がムッとすると、大きな口で二カッと笑った。

彼は夏が好きで、海に行きたいと言うので鎌倉の汚い海に連れて行くと、行き方を覚えて、私が仕事で彼がオフの日は一人で日焼けしに行っていた。もっと綺麗な海に連れて行ってあげればよかったな。下田とか、綺麗な海たくさんあるのに。沖縄も一緒に行きたかったな。北海道も。3年も一緒にいたのにな。

彼が次の仕事を見つけたと言ったのはそろそろ冬があけそうで、でもまだ寒さが厳しい2月の終わりか3月頃だったように思う。何回かオンラインで面接を重ねていて、それがローマの仕事だと言っていた。

どう思う?と何度か聞かれて、あなたの日本での経験も活かせるだろうし、あなたにとって大きなキャリアアップになるのであれば、挑戦すべきと伝えた。

私はその頃働いていた職場がブラックで、次の仕事も決まっていないまま辞めてしまっていた。2018年の年末だった。次の仕事は、ゆくゆく彼を追ってイタリアに行くなら派遣、そうでないならば正社員で探すつもりだった。でも、彼から具体的な話はないまま、翌3月に正社員の仕事が決まったと彼に告げると、それを待っていたかのように「ローマで仕事が決まった」と言った。

私はショックで、彼が仕事から帰ってくる前に家を飛び出して道が続く限り歩き続け夜更けまで帰らず、彼が交番に相談してしまい大騒動になったのだが、あの時に、ふたりの将来のことを具体的に話し合わなかったのはどうしてだろう。この先の二人のプランについて、何も口に出さない彼に自分から口火を切るのが怖かったのだろうか。あの時、白黒はっきりさせておくべきだったと本当に思う。

彼がイタリアに帰ってしまったのは5月の終わりの私の誕生日のお祝いを一緒にしたすぐあとだった。六本木の、彼の友達がやっている小さな可愛いフランス料理のレストランで、繊細な料理を食べた。「トイレがとっても綺麗だったから見ておいで」と彼に言われ、ちょっと不自然に思いながらもトイレを見に行き、席に戻ると彼がリボンのかかった小さな箱をくれた。

こんな大きな指輪は見たことがなかった。ちいさなカタツムリぐらいの大きさのギラギラ光った指輪だった。

彼が旅立つ日は一緒に空港まで行った。またすぐに会える気がしていて…それぐらい私たちはいつもべったり一緒だったから…、本当にまたすぐ会えると思っていたから、私は涙も出なかったけれど、搭乗ゲートに向かいながら何度も振り向いた彼はちょっとだけ泣いていた。私はまたすぐに、彼との楽しいあの生活の続きを、一緒にやるんだと思っていた。

それが2019年6月だった。その8月に一週間だけ日本に戻ってきた。彼はローマのレストランで料理長を任されることになったので、河童橋で買い足したいものがあったとのことだった。彼がまたイタリアに帰る日、私は仕事だったので今度は空港までは行けなかったけれど、仕事から帰るとテーブルにA4のノートが開いて置いてあって「いろいろとありがとう。ちょっとのあいだ離ればなれだけど、またすぐ会おうね、それで、結婚しよう。愛してる」と書いてあった。

あれからどうしてすれ違っちゃったのか、もうわからないし、すごくよくわかるけど、思い出すのにも飽きてしまった。

2020年になってすぐに彼はローマでの仕事がうまくいかなくなり、そしてコロナのパンデミックが世界を襲った。しばらくの自粛生活のあと、彼はスイスに転職した。私はコロナ禍真っ最中に結婚手続きに必要な書類をすべてそろえてスイスに渡り、彼に結婚手続きをしようと迫ったが、彼は手続きの話に向き合うことなく、「結婚手続きの前に自分で仕事探せ」と言い続けたのだった。何度もnoteで書き続けてきたネバーエンディングビザストーリーだ。滞在許可証がないと就職活動もできないんだっていうことを、私は彼に説得できなかった。彼は全然話を聞かなかった。話せば話すほど溝が深まった。そして私はまた帰国して、2021年を迎え、日本で就職活動をしたのだった。

離ればなれになったあの2019年6月から、3年4ヶ月が経った。そのあいだに、音信不通になったり、彼の最愛の弟が亡くなってまた交流が復活したりがあった。弟のお葬式でイタリアに行ったとき「一緒になろう。このまま市役所に行って結婚手続きしよう」「それが無理ならせめてあと2週間一緒にいて」と懇願された。職場から1週間だけの休みしかもらっていないので、そんなことできるはずもなかったけれど、あのまま仕事を放り投げて彼の希望にこたえてあげていたら、今頃一緒にいられたのかな。

気づいたら、一緒に暮らしていた頃のダニーロはもうどこにもいない。彼にとっての私もきっと、あの頃の私とは違う人になってしまったかもしれないし、もしかしたらそれを認識するほど彼はもう私を見ていないかもしれない。

今年の8月に急に彼に呼ばれてイタリアに行ったのが本当の最後になった。終わりの言葉はないけれど、はっきりと終わりを告げただけの、悲しい旅だった。私はその旅でも、結婚手続きの書類をたずさえていたのだけれど、しわくちゃになって今、無残に私の机の上にある。

今日はたくさん歩いた。清澄白河は、彼と一緒に住んだ街だ。親友と会う約束をしたとき、自分をいじめるみたいに「清澄白河がいい」と言った。懐かしい街を散歩しながら、あの頃よく使っていた駅をいくつも見た。もう、あのころのダニーロも私も、どこにもいないことをちゃんとたしかめた。私はダニーロとの過去の幻影に自分で首輪をして、振り回されていたのだった。

絆創膏と靴下で、なんとかごまかしていたけれど、家に帰って靴を脱ぐと思ったよりひどく足が血だらけになっていた。

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