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がんばったこと

日本人は、謙遜する生き物だ。
私も、偉ぶるのはなんか違うなぁーと思うので、どっちかっていうと謙遜したくなる。
ただ、謙遜ばかりだと相手に不快感を与えると思うので、そのさじ加減が難しい。

へりくだる美学。
日本人は、とにかく「若いころには苦労をしろ」とか、「修行」とか、耐え忍ぶ民族だと思う。
けど、そうして踏みにじられてきた尊厳や意思は、どこへいくのか。
ただただ、蓋をするしかないのか。

耐え忍ぶことの美学は、わかっている。
でも、それにも限界はあるんだよね、と思う。

いくら努力をしても、変わらないものはあるし。
耐えれば耐えるだけ、どこかがすり減っていくのだと思う。
「多様性」とか「個の時代」みたいなことが叫ばれる昨今、耐え忍ぶことの美学だけがいいわけではないという、そういう理解だ。

10年近く、耐え続けてきたことがある。
私は、嫌な記憶はすぐに忘れてしまうので、すでに記憶はおぼろげだが、あの頃に戻りたくないという記憶だけはある。
なんで耐えてきたのかとか、どうして耐え続けなければならなかったのかとか、今思えば不思議な気さえする。

自分が今までやってきたことを「がんばった」と思ったことはあまりないけれど、「それは、がんばったってことなんだよ」と、何人かの人に言われた。
まあ、じゃあ、そういうことなんだろうな。

耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶ。
協調性を重んじるが故、個の意見を殺すことを常としてきた私にとっては、大したことではない。
自分一人が我慢すれば、全体が丸く収まるのなら、私は私の意見を殺すことになんの不服も不満もない。
ほとんどの場合は、そうだ。

だから、がんばってきたつもりもないし、長いこと気づかなかったのだと思う。
たまに、心が苦しくなって、仕事が手につかなくなって、自分の心がコントロールできなくなって、「わぁあああ!」ってなっていたあの時期は、やっぱりちょっとおかしかったんだろうな。

いま、心はとっても健康だし、幸い、体も健康なので、大きな心配はしていない。
もう、我慢はやめた。
言いたいことは言うし、やりたいことはやる。
なんで、こんな簡単なことができなかったんだろう、と思う。

子どもたちに言わせると、私は「優しい」らしい。
優しいというのは褒め言葉だけど、なんとなく手放しでは喜べない。

やさしさというのは、時には何かの犠牲の上に成り立っているということもあるんだと、気づいてほしい。

優しいということは、誇るべきことだと思う。
でも、声を上げていないだけかもしれないと、わかってほしい。

優しいから、利用される。
優しいから、いいように使われる。
優しいから、何を言っても大丈夫だ。
違う、そうじゃない。

そんな世界を見たくはなかったけど、そういう世界もあるのだと知った。
知りたくはなかった。
でも、世界はきれいなばかりではない。

がんばったんだなぁーと、漠然と思う。
全然、そんな気はしないけれど。

いま、毎日、朝から晩までやることが山積みで、後手後手に回ってしまっていることも多い。
私は不器用なので、いつも「わぁあああ!」ってなっているけれど、でもとっても幸せである。
そんな話を、ふとしたくなった。

もし、あなたの心に少しでも安らぎや幸福感が戻ってきたのなら、幸いです。 私はいつでもにここいます。