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涙腺は、崩壊しても修復する

涙には、ある種の治癒力があると思う。
「涙腺崩壊」とは、眼球のダムが決壊して、分泌物が止まらなくなることを言うけれど、崩壊しっぱなしって話は聞いたことが無い。

涙は、堪えようと思っても堪えきれないもの。
感情の向こう側から湧き上がるもの。
時には、とめどなく溢れて、手に負えないもの。
人は、それを「崩壊」と呼ぶ。

涙は嫌いじゃない。
泣きたかったら泣けばいいんだ、というのは私の持論だ。
ある意味、涙という形になって流れてしまえば、憑き物が落ちたようにスッキリもする。
もちろん「泣きたいほどの何かがある」というのは、人体にとってはストレスなので、まあまあ厄介だということも理解している。

昨日、まあまあショッキングな出来事があって、ひとしきり泣いてみた。
自分とのおつきあいはそこそこ長いので、自分をコントロールする術は心得ている。

感情がぐるぐるし始めて、一日中ネガティブが抜けない。
こんな時には「ええい、泣いたほうが早いや!!」という、一種の解決策として「泣くこと」を選択する。
泣くことは「ストレス発散法」の一つだ。
昨夜も、淡々とそんなことを考えながら、泣く準備をしている自分がいた。
泣きたいから泣くはずのものを、「準備してから泣く」という時点で、ややウソっぽくはあるが、ウソではないのです。

念のため、誤解しないでいただきたいが、初恋の人に振られたくらいにはショックな出来事ではあった。
その日一日、その感情を引っ張って、もう何も手につかないくらいのダメージは負った。
しかし、客観的に見れば「とりあえず、泣けばメンタル回復するな」ということでもあると分かっていた。

とっても変だなぁと思うけれど、泣いてスッキリすることが昨夜の私には必要だった。
だから、夜、お気に入りのタオルハンカチを握りしめて、ひとしきりわあわあ泣いた。

泣くときのコツは、とにかく全部の感情を出し切ること。
ある意味、便秘の時の浣腸に似ているのかもしれない。
出さないと、すっきりしない。
出すための特効薬を仕込んだら、とにかく全部出し切る。
うん、正しい。

とんでもなくやりきれない感情を抱えている時の、私の状態を客観視すると、そういうことになる。
恥ずかしいとか、カッコ悪いとか、そんなことはどうでもいい。
泣くことで自分の自我とメンタルを保てるなら、思う存分泣けばいい。

ってことで、思う存分泣いた。
たぶん、30分くらい泣いたと思う。
出し切った後というのは、人間、呆然とするものだ。
「泣いちゃったなー」とか「なにこんなに、一生懸命泣いてんだろう」とか、冷静な自分が出てき始めたら、そろそろ潮時だ。

涙と連動して、鼻水が出てくるのだけは本当にどうにかなんないもんかな、と毎度思う。
涙が枯れても、鼻水がしばらく枯れないので、しばし鼻水と格闘する。
この時間帯が、一番むなしい。
涙は美しいものとして語られがちだけど、それに付随する鼻水は、美しくもなんともない。

そして、鼻水が枯れれば、ようやく平常心を取り戻す。
ふう、と一呼吸ついてから「ま、なんとかなるだろ」という心持ちの自分がいることに気づく。

圧倒的な回復力。
むかし「涙の数だけ強くなれるよ」という歌があったけれど。
まさしく、それだ。
泣いて失うものは、何一つない。
涙腺が崩壊したのち、心の傷はかさぶたが乗っかったくらいの状態にはなる。
体力も、精神力もだいぶ使うけど、それ以上の回復力がある。

涙に頼らないで生きていければ、それはそれでいい。
涙に翻弄されて、自分を見失うようなことにはなりたくない。
でも、心の「特効薬」として、うまいこと利用するようにしている。

何年か前までは、自分の限界がよくわからなくて、我慢しすぎて、結果、無理がたたって、一か月くらい無気力になったりすることが良くあった。
それじゃいけないと思い、少しでも早く浮上するために、なにができるか?考えた先にあったのが「涙」だ。

つらいことがあったら、泣いてもいい。
我慢しないで、感情に身を任せてもいい。
ひとしきり泣いて「ばっかみたいだな」って思えたら、しめたもの。

大人になってからでも「泣いてもいいんだ」なんて、当たり前すぎて誰も教えてくれない。
だから、あえて言おう。

つらいことがあったら、泣いてもいい。
声を出して泣いて、握りしめたタオルが涙と鼻水でびしゃびしゃになってもいい。
ちっとも恥ずかしくないし、どこも間違っちゃいない。

流れた涙は、心を元気にしてくれる。
涙腺崩壊しても、どこも傷つくことはない。
大丈夫。
大丈夫だなって、涙を拭った時に気づく。

そしてまた、強くなるんだ。

もし、あなたの心に少しでも安らぎや幸福感が戻ってきたのなら、幸いです。 私はいつでもにここいます。