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身近な、実に身近に存在するたくさんの“困難”について

 今回が2つめの投稿です。実はnoteを始めたきっかけは、NHKのひきこもり特集(ひきこもりクライシス)の取材をうけクローズアップ現代プラスの収録に参加し、改めて私は世の中に伝えたいことがあるんだと思ったことと、それから、この記事をどこかに書きたかったからです。
 よんてんごPさんの記事「教育ボランティアで出会った小4の子の話」に対する、くらげさんの反応「よんてんごPさんへの返答。あるいは生きることの難しさは「かけ算」であるという重みについて。」を拝読し、そして、彼の記事から、更に膨らませた話を書きたかったのです。

 この記事では、次のようなことを書きたいと思います。
・彼女のような子は決して少なくない。また人生を生きる力に欠けているかどうかとはまた別の話
・彼女の家庭環境や彼女の抱えていたものはなんだったろうか
・多様な生きづらさ、生きづらさの掛け算と、それを知る難しさ

彼女のような子は少なくない

 さて、まずはよんてんごPさんの記事をまずお読みになられるといいと思います。とても大事な問いかけをしています。

・よんてんごPさんは、かつて大学時代に教育ボランティアで出会った小4の女の子に衝撃を受けた。
・彼女は学齢の割に基礎学力がかなり遅れている“考えることができない子”だった。
・平均のレベルまでもっていくには、棒大なステップが必要で、現在の学習と並行し、本人の意欲を維持しながら行うのは難しい
・少なくとも親御さんも巻き込んでいく必要があるけれど、応じていただけない。
・彼女は接触を好む子なのも気になった
・「生まれ落ちた環境」によって、完全に進む方向が決定付けられ、そこから這い上がれない"普通の子"というのがいる現実にショックをうけ、今でも心に留まっている

 これに対し、くらげさんは、次のようなアンサーをしています。

・障害というものを理解してもらうのがいかに難しいか
・発達障害・学習障害・経度知的障害等の人は意外と多い
・生きづらさは掛け算である

 私はくらげさんの指摘を大事な指摘だと思いました。同時に、この子について、幾つか思ったことがありました。

 彼女は、勉強ができず、50音のひらがなも危うい。繰り上がりのある足し算もあやしい。ひらがなが鏡文字になってしまうといいます。
 確かに発達障害や学習障害(LD)、軽度知的障害など、なにか困難を抱えている可能性が高いと思います。そして、そのような子は、くらげさんの指摘する通り、決して少なくない。

 決して少なくないというのは、私の実感とも一致します。中学でも割り算の筆算が危うい子、当てずっぽうで答えてしまう子、甘えたり、ふざけたりすることで、その場をなんとかしてしまう子、いませんでしたか。小学校のお友達、中学校の学校や塾のお友達、中学校の補修(別に参加しなくていいけど参加していた)でフォローしていたお友達、大学に入ってから個別指導・家庭教師でついた子たち…思い出しても常に何人かいたと思います。

 くりあがりのある足し算が危うい子は多くはないかもしれないけれど、たまに話題になるように、割り算や分数の計算のできない子は確実にたくさんいる(少なくとも私の身の回りには常にいた)。ならばくりあがりのある足し算ができない子も絶対かなりいるはずだ…。
 私はそう思ったので、よんてんごPさんのショックについて、そんなに衝撃を受けることかなぁ、と思ったのです。同時に、学校の標準的な教え方が通用しない、向かない子だとも思いました。学校の教え方、みんなが会得してきている勉強とは、飽くまで中間的な子を下支えするやり方です。中間的な子以外はとりこぼすことは前提なのです。

普通ってなに?普通から外れるとは?

 とても残酷な書き方ですが、学校で行われたり、知的障害や発達障害を把握するための一つの尺度として使われる知能指数で考えてみましょう。知能指数の測り方は複数ありますが、数字としてその意味がわかりやすいのは、偏差知能指数です。偏差知能指数とは、年齢ごとの成績のばらつきが一定のようにしてある、偏差値を基準としたものです(知能指数(IQ)参照)。乱暴に言えば、人口のだいたい半分がIQ90〜110、80%がIQ80〜120に入るようになっています。上下10%がそれぞれIQ120以上、IQ80以下になります(統計的には厳密に作られていますが、IQそのものが厳密に測れるものではないので、だいたいでいいのです)。知的障害の境界域といわれるのがIQ70〜85。2%くらいにあたるIQ70以下が軽度知的障害のめやすとされます。2%ということは、50人にひとり。境界域までふくめると6-7人にひとり。80%の人が入るIQ80〜120が普通と言われます。

 知能指数で言えば、IQ80〜120の普通を念頭に、この8割の個人差も大きくてあまり手が回らず、上下にいる1割にも十分に手がさけないのが現状、というのがひとつの見方です。

 軽度知的障害というと、どのようなイメージをもたれるでしょうか。どこかで「IQが20違うと話が合わない」とかいう話題もありました。じっさいのところ、成人の軽度知的障害はほとんど認知されていないと思います。多くの人は社会の中でなんとかやっていて明るみにでないと言われます。実際。言われないとわからない人が多い。私の周りでも、軽度知的障害なんだというかたが何人もいますが、知的・想像的で積極的な人もいますし、コミュニケーションで問題があるように感じない人もいます。むしろうちの父の方が話が通じないくらい。でも、その人たちはみんな軽度知的障害の診断を受けているのです。その診断を受けているということは、なにかあって診断を受ける必要があって、医師の判断を仰いだ結果、軽度知的障害である、それゆえの困難を抱えている、と医師から診断を受けているのです。
 私はそのお友達がどんな困難をもっているか聞かないので、わかりません。発達障害の困難の実際、精神科領域の困難の実際を知ることが難しいように、困難を言葉にすることは難しいですし、知らなくてもお友達でいられるし、興味本位で知るようなことはしなくていいのですから。

彼女は決して例外ではないし、そして生きる力とは関係ない。

 兎にも角にも、私の周りには割り算の筆算が危うい子たちは少なくありませんでした。分数の計算ができない子も結構いましたし、ロジックで問題を解けない子はもっと多かったのです。文章題を解くのに、出てきた数字をそのまま順番に当てはめて、ばつになるのだって普通でした。

「違うよー。これはここにこう書いてあるじゃん?だからこれとこれを足して、これで割れば、ほら」これができないお友達のほうが、できるお友達より多いというのが体感でした。とうぜん、この説明では通じない。普通の子がなんとかわかっていなくてもついていける、わからなくてもやりかたを覚えればなんとかしていける、それが普通の学習・勉強の世界だと感じました。

 私のお友達に、何人かあきらかに知的な遅れがあるのかな、という子も何人かいました。小学校中学校のなかで、周りと違う、苦労やいづらさ、辛さもあるようにみえていました。彼女たちがいまどうしているか。実はみんなと同じように恋愛したりして結婚して、勤めにでたりして、普通の暮らしをしているのです。もちろんそうでない子もいます。
 また、成績が悪いと暗に言われる子もいました。実際によくなかったのを私は知っています。でも私はその子をリスペクトしていました。なぜなら、どうしてか不思議な親近感をもってしまったし、その後知っていったのですが、しっかりと自分の考え・意見を持っていて、必要な時に現実的な判断ができ、下手な大人よりよっぽど地に足のついた考え方ができる、しっかりした子だったからです。彼女も生きづらさを感じていたと思います。私の目にはそう映っていました。その子はいま3児のママをしています。

 みんな悩んだり苦しんだりもしているけれど、みんなと同じような生活をしてもいるのです。

 だから、きっと、この彼女も、立派な大人になれる可能性は高いと思いました。決して、勉強が潰滅的だったからといって、立派な大人になれない訳じゃない。それとこれとは全然違うのです。

 生きる力、生き抜く知恵、それには、もちろん勉強に象徴されるものから得るものは大きな支えになるけれど、それは生きる力・生き抜く知恵のいちぶです。ほかのことも含めて、いきるちから、いきぬく知恵があれば、立派に生きていけるのです。

彼女の家庭環境はどんなだったか

 翻って、よんてんごPさんの記事には、担任がいうには親御さんの反応が芳しくない、また、彼女が強く接触を求めるというのがありました。

 ここからも、彼女がその時生きづらさを抱えていたんだなと 考えることは十分可能だと思います。一方で、それがどんなものかはとうぜん、よくわかりません。彼女が勉強ができない理由もよくわからない。知的障害かもしれないし、発達障害もしれないし、心理的なものが積み重なった経緯があるのかもしれません。「よくわからない」ということも考えておく必要があります。

 彼女のご両親は、なぜ、担任の先生に対して反応が芳しくなかったのか。もしかしたら、彼女の抱えている何かにご両親も悩んでいて、先生から何かを指摘されるのすらうんざりだったのかもしれない。あるいは、精神的虐待のようなものがあったのかもしれません。広く考えておく必要がありそうだと思いました。

 彼女が接触を強く求めるというのは、注目すべきです。男性の先生に対して接触を好む女の子は私の周りにもいました。愛着障害を疑うべきかもしれないし、“気まずさ”や“いたたまれなさ”を彼女なりに解決しようとの行動だったのかもしれません。

 いずれにせよ、いろんな可能性が考えられますし、その数だけ、生きづらさ・苦しみ・しんどさの背景のパターンがあり、実際にどれかのパターンで苦しんでいる人もいるのです。彼女の場合はどうだったか。よくわからない、けれど、現実は想像しているよりいろんなことがあるに違いないことだけは確かなのです。

彼女に必要なものはなんだったのか

 よんてんごPさんに担任の先生がした説明のひとつが「学習進度が遙か手前で止まっていて、ひとつひとつ段階を追ってフォローしていかなければならない」が「現実的には不可能」でした。でも、学習進度が遙か手前で止まっている彼女に、ひとつひとつ段階を追って丁寧に教えていくことができるでしょうか。私は難しいかもしれないと思いました。なぜなら、わかっていなくてもついていけるものが、ついていけていないのだから。別のアプローチが必要なのかなぁと感じました。つまり、「学習進度」や「学習・理解のために必要なステップ」がうまく機能せず、別の方法を考えるべきなのかもしれない。彼女に必要なものを知るには「学習進度」や「学習・理解のために必要なステップ」ではない、別の観点が必要で、そこから、彼女に合わせた目標を見出し、相応なステップを考えてフォローしていけば、彼女にとって必要な学習ができたのかもしれないと思うのです。

  もちろん、彼女には心理的なサポートも必要だったでしょう。クラスの中では彼女はどのように過ごしていたか。家庭ではどうだったか。周囲の大人は彼女にどう接していたか。気掛かりなことはたくさんあります。

 実際に、彼女が必要なものがわかったとして、そこまで大人がいろいろできるか、というのも現在の社会の残酷なところだと思います。

 また、これらの観点について、私は児童発達心理や特別教育の専門でないのでわかりません。詳しいかたの教えを請いたいです。

困難の多様さとそれぞれの困難を知る難しさ

 くらげさんは、障害は掛け算だと書きました。その通りだと思います。いろんな障害や事情が重なって(=掛け算となって)、当事者を包み込みます。

 ここで、ひとつの考え方の例として、DSMの多軸モデルと多元モデルを参照してみます。DSMとは、米国の精神障害の診断分類で、WHOのICDとともに診断分類の標準として重要なものです。

第1軸: 精神疾患
第2軸: パーソナリティ障害/知的障害
第3軸: 一般身体疾患
第4軸: 心理社会的・環境的問題
第5軸: 心理社会的・職業的機能の全体的評定

 多軸モデルとは、以上のような5つの視点から状態像を見ていこうとするものです。これもいわば、精神疾患×パーソナリティ障害/知的障害×身体疾患×心理的社会的課題×心理的社会的機能の評価と、各軸の掛け算として捉えようとしていました。

 また、多元モデルとは、複数の要素それぞれについて検討し、それぞれの掛け算として、障害の状態像をみようとするものです。これは、精神疾患などでも複数の精神疾患の要素を持つことが珍しくない現実に対し、特定のカテゴリに(操作的に)分類しようとしたDSMの問題の解決を試みたものです。臨床では多くの先生が多元的に捉えていると思いますが、一方で状態像を伝える言葉である診断分類の影響力も強いと思います。
 それともかく、ここで注目すべきは、誰かの抱える障害(くるしさ)の実際は、いろんな要素が組み合わさったものだということです。
 いわば、○○障害×△△症×□□障害×…と考えるのです。その要素がどのくらい深刻かどうかで、障害になったり障害じゃなくなったりします。言い換えれば潜在的には多くの人がいろんな障害の要素を持っていて、その程度の軽重の組み合わせはひとの数だけあって、困難を抱えるひとのくるしさ・しんどさ、障害とは、実際には困難なハードルの掛け算なのです。

 これらは、障害に限らず、多くの人について同じようなことが言えます。誰だって難しさや悩みや辛さを抱えています。だから障害は甘えだとかみんな辛いんだから頑張っているんだからと言われるわけですが、ではそのみんなの苦しさとはと考えたときに、全く同じように他の人の苦しさについても、こんな事情やこんな辛さの掛け算だと考えることができるのです。普通に生きているみんな、誰もがいろんな事情の掛け算を持っているのです。それが日常生活に影響が出るほど苦しいものならば、障害と呼ばれ、診断されたりしますが、本来は診断がなくても、社会の中でフォローされるべきなのです。

 それだけ、私たちの身の回りの人たちは、ほんとうは、いろんなことを抱えているのです。目に見えない、気づかない、わからないだけで、ほんとうはいろいろある。
 そして、それはほんとうにいろんなケースいろんなパターンがあって多種多様だけれど、社会の中でフォローされて当然なのは変わらない、誰もが必要な助けを得られるべきなのです。

 よんてんごPさんの接した子も、とうぜん、学校教育のなかで、或いは学校の外で、いろんな形でフォロー・助けが得られるべきでした。また、同時に、当時と現在では違うだろう、とも容易に想像がつきます。

 少しずつだけれど、私たちの社会がもつ視野は確実に広がっていっていて、進歩していて、今現在もそのエッジで格闘している方々がたくさんいるのです。まだまだ見えていない苦しみつらさしんどさ、障害もいっぱいあるはずです。

 そう考えることで、"みんなのくるしさ"や、まだ見えないいろんなくるしみに、少しでも優しくなれたら、と思います。

皆さまのお心は私の気力になります。