就職活動という「プロクルステスの寝台」

 ギリシア神話に、「プロクルステスの寝台」というものが出てくる。プロクルステスというのはある追い剥ぎのあだ名である。彼は大小2つの寝台を用意し、大きい人間を小さい方に寝かせてははみ出した部分を切り落とし、小さい人間を大きい方に寝かせては足りない分を引き延ばしていたという。じつに示唆的な説話ではないか。

 映画『狂い咲きサンダーロード』の主人公・仁(じん)は、この説話の犠牲者を体現するような人物だ。
 有り体に言えば、彼は一匹狼である。暴走族グループの一員である彼は、体制に迎合するグループのあり方に反抗し、自己の信念を貫き通す。だが、それゆえに元々所属していたグループから目を付けられ、衝突を繰り返し、しまいには闇討ちのような形で右手と右足を切り落とされ、生きがいであったバイクに乗れなくなってしまう。
 しかし仁は折れない。自分をそんな体にした人間への復讐を誓い、闇商人から大量の銃火器を仕入れ、自分を叩き潰そうとした連中——かつていたグループや、元暴走族のヘッドがのさばる警察や、自分を更生させようとした右翼——を皆殺しにする。そして最後は闇商人の助けを借りてバイクに跨り、ブレーキもかけられず、降りることもできない身体で、死ぬまでかっ飛ばし続ける…。

 閑話休題、「就職活動」なるものは、社会という戦場に向かう兵士たちを、プロクルステスの寝台に縛り付け、手足を切り落とす(あるいは、引き延ばす)通過儀礼だ、とぼくは思っている。そして、我々を切り刻むプロクルステスの顔には、「成長」の二文字が刻まれている。

 この「成長」という謎の概念に即して、我々は自らの身体を矯正する。社会にお誂え向きな存在となるように自らを改造する。自己開示の仕方、話し方、身振り手振り、そして自意識。就職活動における成功は、これら個々人に固有なものとのバーターで得られる。そこで失われる何かがあるのかもしれないという葛藤を棚に上げてはじめて得られる。

 だが、「成長」とはいったい何なのか。要するに会社の役に立つかどうか、ということであろう。企業はそうした本音を「人間力」とか「市場価値」とかいったおためごかしで飾り付け、あたかも我々が素晴らしい人間になれるかのようなご高説を垂れる。べつに金になることだけが人間としての価値を高めることではないのにも関わらず。

 身も蓋もないことを言えば、「市場価値」を獲得したほうが、この先生き残れる確率は上がるだろう。日々の糧に困らず、落ちぶれず、うららかに過ごし、安定した老後を送ることはできるかもしれない。でも、そのために苦心惨憺することが人間らしいことだと言えるのか。

 要するにぼくが言いたいのは、「一生本を読んで過ごしたいです。そのためにお金が必要です。べつに年収1000万も欲しいわけじゃありません。まじめにやります。それなりの働きはします。ですので是非雇ってください」、ではダメなのか、ということだ。

 まあ、当然ながら、ダメなのである。企業というのはぼくの個人的趣向とは全然別の原理で動いていて、より多くの利益を生み出すことを是とするからだ。だからここに書いたことはモラトリアムを脱し切れていない青二才の戯言である。社会に揉まれたことのない子供の素朴な妄言である。

 そのうち、プロクルステスに切り落とされた腕や足の傷口はふさがって、(あるいは、引き延ばされた肉や骨が繋がって、)幻肢痛に悩まされることすらなくなる日が来るんだろう。ぼくだけではなく、多くの人が、社会に出る前に同じようなことを考え、年を重ねるにつれて、そんな考えを若気の至りだと断じていることだろう。それが「大人」になるということなのかもしれない。ぼくは意志の弱い人間なので、尚更そう思う。

 さればこそ、ぼくは『狂い咲きサンダーロード』の仁に憧れてしまう。自らの信念に殉じるため、手足を切り落とされてなお、死をも厭わずに走り続けた男。彼の振る舞いは成熟の拒否であったかもしれない。それでも美しければいい、とぼくは思ってしまう。キッチュではない(たとえば「お国のため」とかではなく)、真に自分だけの信念に殉ずることは美しい。美しくありさえすれば、その人生は何ものにも代えがたい。

 ぼくは仁のように走り続けることはできないだろう。

 

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