お父さんだったらなんていうかな

ひとつ前のnoteを書いた数日後に
父は逝ってしまった…。
80才の誕生日祝いは叶わなかった。

フライトの変更が叶わない私に合わせて
1週間ほど待ってもらって
お通夜と告別式を執り行った。

その1週間のうちに氣持ちの整理をして
割と落ち着いて日本に向かった。

父にはもっと教えてほしいことたくさんあった。
私にも子供たちにも。
でももういない。

私にはもう
「お父さんならなんて言うかな?」
って想像することしかできない。
あの声を聴くことはもうできない。

でも身近に感じているんだ。

だからさみしくはない!
なんてことはないんだけれど

「お父さん」
ってこれからも呼びかけるよ。

なーんて書くのも恥ずかしいんだけれど

いつでもあの声あの笑顔が
浮かんでくるんだよね。

私は自分が読みたい本は実家に送りつけ
ある程度の荷物が貯まると
タイに送ってもらっていた。

その本をまず最初に読んでいたのは父で、
私の手元に届いてからページを開くと
決まって大事なところ?には
線が引いてあった。

父はよく私に啓蒙されたと言ってくれた。
私は父と想いを共有できることで
自分を認めてもらっているんだと感じられて
安心感に包まれていたんだよ。

その引かれた線に
「だよね、ここだよね」とか
「ここ?か」
なんて思いながら読んでいた。

最後に父とふたりで出かけたのは
参政党の街頭演説と講演会だったな。
2人で合間にお茶をした。
そこに年明け家族みんなで食事に行って
あのときの時間を思い返したよ。

父はベッドの上でしっかりと
私の手を握ってくれた。
「また来るからね」
という私にうなずく父。
父はこれが最期だってことわかってたのかな。
わかってたんだと思う。

11月下旬、退院する父を待っていた私を
やっと来てくれたか!とばかりに
じーっと見つめる痩せた父の目を
私は忘れられないよ。

あまりにもあっけなく
思いもよらない展開だった2022年。
父自身、迫りくる死をどのように捉え
どう受け止めていたのか
私にはわかりようもないのだけれど
その生きざま、死にざまを見ていたら
なんとも潔く父らしいなって思えたんだ。

夏には子どもたちも会えたし
一緒に旅行もできたし
子どもたち(孫)それぞれに
忘れがたい思い出も作ってくれた。

私たちがちゃんと納得できるように
父は十分すぎるくらいの思い出を
ちゃーんと遺してくれた

病床に臥して尚、命の限り
父はそれぞれが受け入れられるように
時間を与えてくれたよ
それとヒントとみたいなものをね。

だから思ったよりも
すんなりと父の旅立ちを
祝福とまではいかないような氣はするけれど

またね!

ってしばし別れられたような…

それを叶えてくれた
最期傍にいてくれた母やいとこを始め
相談に乗ってくれたあの先生や
励ましてくれた友達や
寄り添ってくれたあの歌や

みんなにありがとう

と言いたい。
だから新たな氣持ちで2023年を迎えているよ。

父がすでに過去の思い出となっている
と氣づくことは悲しいんだけれど
今は母を迎えて父との思い出の場所を
巡ったりしている。


さぁこれからどう生きていこうか…



今年もよろしくね!

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