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雑記(9月も終わりですってよ)

やっと朝晩の空気が秋らしくなってきたなと思ったらまだ昼間は暑かったりして、どうも気温差にやられて風邪を引いたかしらと思いながら病院に行ったら例の感染症だった(少し前の話、回復済みです)。
そうこうしているうちにもう9月30日です。

毎年9月の終わりごろになると思い出したようにnoteを書き始めるのは、今年度ももう上半期が終わってしまうのかということに気づいて呆然とするタイミングでもあり、個人的には誕生日を過ぎて間もない頃でもあり、ちょっと最近の総括じみたことを言いたくなるせいだろうと思う。

この夏何をしていたかしら、とスマホのアルバムを眺めて、そういえば、初めて伊勢神宮にお参りをしたなと思い出した。

鎮守の森はひんやりした風も時折吹いていた(それでも暑かったけど)

お参りしたのは暑い盛りの時期で、鎮守の森でもやはり暑いのは否めなかった。それでも境内を歩くのは清々しい気分になった。

どうでも良いが、外宮にお参りした時、蝉の声がすごかったのが、正宮の近くまで来たらスッと音が遠のいて静かになった。それ自体は単に正宮の周りが少し開けているせいだと思いつつ、蝉の声が引けていく瞬間に空気が変わるような感覚はなんだか良い。

内宮の宇治橋を渡る時にも、五十鈴川からの涼しい風が吹いてくるのが心地よく、また神聖さも感じさせるものだと思うなどした。

ちなみに参拝後はおかげ横丁で伊勢うどんを食べて自分の中の「うどん」概念を拡張してきたのだった。

個人的な「うどん」概念拡張の記録
おはらい町通りとおかげ横丁を散策するなど(シンプルに観光)

そういえば神社仏閣にお参りする時、大抵これといった願い事が思いつかないので「いつも見守りありがとうございます! 色々頑張るので今後ともどうぞよろしくお願いします!」ぐらいの(文章にすると酷い)ざっくりしたことを願って帰ってきてしまう。

というわけで「色々頑張るので」の部分は自力でどうにかしないといけない。

話は変わり、8月に神奈川芸術劇場でやっていたKAATキッズプログラムの舞台「くるみ割り人形外伝」というのを観てきた。

出演者の中に私の好きな唄とアコーディオンの姉妹ユニットであるチャラン・ポ・ランタンがいて、彼女らがものすごい勢いで「みんなに絶対見てほしい」と言うので、キッズではないけれども観に行ったのだった。

結果、観に行って本当に良かった。

ストーリーは、タイトルの通りくるみ割り人形をベースにしたアナザーストーリーという感じで、大人も子どもも楽しめるであろうファンタジー。
出演者の方々のパフォーマンスはとても素晴らしく音楽も素敵。

ただそれだけではなくて、チャラン・ポ・ランタンでアコーディオンを弾いている小春さんのストーリーがこのお話には反映されていた(なんなら小春さんの物語だと言っても良いぐらいだった)というのが、個人的に一番の驚きであり観てよかったと思う理由だった。

この話はご本人のnoteを読んだ方が遥かにわかりやすいはずなのでリンクを貼っておく。

脚本の根本さんとの関係性も素敵だし、小春さん自身のアコーディオンとの出会いが反映されたこの舞台に、自ら楽曲提供し、アコーディオン弾きとして(そして大人になった主人公クララとしても)出演しているなんて、そんなドラマチックなことがあるのか。人生っておもしろい。

舞台のクライマックスで出てくる「想像できることはなんだってできる
想像できるものにはなんだってなれる」という歌詞。
歌詞のほとんどの言葉は根本さんから生まれたものだと小春さんは書いているけれども、私がこのフレーズを聴いた時、確かに生きたメッセージを感じられたのは、根本さんだけの力ではなくて、曲を書いた小春さんがいて、それを歌い演奏する出演者とバンドメンバーがいたからこそではないかしら、と思う。

実際のところは私もいい歳なので(というだけが理由ではないかもしれないが)、自分自身については、無邪気に夢を語ってもしょうがないと思っているし、今からでもなんだってできるしなんにだってなれるとは到底思えないのだけれども、それでも、なんかもうちょっと妥協せずに頑張ってみてもいいかもな、ぐらいの気持ちにさせてくれる。

で、それだけだとあまり夢がなくスケールも小さい話だけれども、舞台を見た大人の中にはほかにもそんな気分になった人がいるでしょう。

そして、もっとストレートにこのメッセージを受け取った子どもたちがいることでしょう。

そんなメッセージを、言葉の上でだけではなくて血の通ったものとして届けられる人たちを私はやっぱりすごいと思う。小春さんも根本さんもすごいし、ボーカルのももさんも、出演者の皆さんももちろんすごい。

すごい人たちの作り上げた舞台を観ながら、私はせめて、いい歳した大人の一人として、こういうメッセージを送る側の人たちがそれを本気で届け続けることができて、子どもたちが(いや大人もか)それを素直に受け取ることができるような世の中となるように、その一端を担いたいと思ったのだった。

で、「色々頑張る」の話に戻る。
世の中を云々書きつつも私は一市民なので、ひとまず自分の日々の生活(勤め人としての仕事も含めて)をやっていくしかない。

じゃあどう頑張ろうかなと思いながら家の本棚を眺めていたら、ミナペルホネンの皆川明さんの『ミナを着て旅に出よう』の背表紙が目に入ったので読んでみる。

皆川さんの考え方ですごいなと思うのは、「自分の人生を超えて続いていくものを作る」ということを考えながらブランドを育てているところだ。

会社に勤めていると中長期の計画なんかも当然立てたりするわけだけれども、あるブランドなり仕事なり、何かが一人の人生を超えて、100年単位で先に続いていくようにという哲学を持ちながら働いている人っていったいどれくらいいるのかしら。
(もちろん、業種だとか会社の規模だとかいろんな事情があるし、並べて比較してどうこう言えるものでもないが)

私も具体的なものをつくる仕事をしているわけではないので「100年続くように」と言われてもなんだか茫漠としたイメージしか持てない。けれども発想はとても素敵だと思う。

自分の成した仕事、あるいは自分の所属する組織の成した仕事が世の中にとって何かしら、いくばくかでも役に立つもので、それが脈々と、長く続いていくものになったら、きっと嬉しい。

それが先に書いた世の中云々の話につながっていけば私としては言うことなしだ。だいぶ風呂敷広げすぎ感はあるが。

そんなことを最近はぼんやりと(結局ぼんやりと)考えているのだった。

伊勢神宮に行ったのも夏の話だったし、タイトルのわりにあまり季節感のないnoteになった。
今年は、金木犀の香りはまだでしょうか。


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