"なかったことにしない"物語:「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」についての雑記

 ひとの善意や誠意ができるだけ報われる世界であってほしい。立派な人間ではないじぶんのこともちゃんと肯定して生きていきたい。じっさいはなかなか難しいとわかりつつ。
 それが実現する世界を、ドラマを通してであれ見ることができたのは、今年の数少ない収穫のひとつかもしれない。

 ドラマ「チェリまほ」こと、「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」がそれだ。

 最初にタイトルとあらすじを聞いた時こそどこから突っ込んでいいのかわからず目が点になったけれど、Twitterで話題に上っていたのがなんとなく頭に残り、観てみたら驚くほど引き込まれてしまった。そのうえ思いがけず心動かされたり、ふと救われたような気分になったりもして、ここ数年で最も印象深い作品のひとつになっている。だからわたし自身の2020年を振り返る時に欠かせないものとして、このドラマについて書いておこうと思う。
 好きな場面を挙げていくとそれだけで1万字は軽く超えかねないので、作品の一、二の側面しか取り上げられないかもしれない。それに、単純な感想からじぶん自身に引きつけて考えたことまで、雑多な内容になると思うが、ご容赦願いたい。

 なお、ドラマの内容に関する記述も含むことになると思うので、もしこれから視聴しようという方がいればご注意ください。

 先に載せた公式サイトからもあらすじはご覧いただけるし、もう色々なニュースサイトやブログにレビューなども書かれていると思うのでここで紹介するまでもないかもしれないが、念のため。
 「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」(以下「チェリまほ」と表記)は同名のBLコミックを原作としたドラマ。女性経験のないまま30歳の誕生日を迎えた主人公のサラリーマン・安達は「触れた人の心が読める」という魔法が使えるようになる。ある日、会社のエレベーターで偶然、社内の同期・黒沢に触れたとき、彼が自分に思いを寄せていることを知ってしまうというところから物語が始まる。

 黒沢は安達とは対照的に、端正な顔立ちで人当たりもよく、仕事でも周囲から評価されている存在。そんな自分とは遠い世界の人間のように思っていた相手からの好意に安達は戸惑い、外見からは想像もつかないような黒沢の心の声に振り回されもするが、一方で、黒沢が自分の仕事をちゃんと見てくれていたことを知って心動かされたり、完璧に見える黒沢の迷いや葛藤に触れたりするうち、徐々に安達にとっても黒沢の存在は大きくなっていく。 
 ラブコメディではあるけれど、この過程で一足飛びに恋心を自覚するのではなくて、相手をもっと知りたいと思ったり、失望されるのではないかと恐れたり、相手の心が変わるのを寂しいと思うというように、安達の心境の変化を丁寧に追っていく展開になっている。二人が恋人となった第8話以降も、彼らの関係の深化や安達の思いはひとつひとつ、劇中の台詞を借りれば「ゆっくりのんびり」描かれる。
 だから観ているうちに自然と安達を応援していたし、つい感情移入してしまう場面も多々あった。そもそもドラマを見ている時に批評的な目で見ることはあまりないのだけれど、このドラマに関してはなおのこと、気づくと安達(と、時々黒沢)にじぶんを重ねてしまっていた。
 安達が少しずつ周囲との関わり方を変化させていく物語の前半では、その一歩一歩にいちいち画面のこちら側で頷き、黒沢の応援を受けて社内コンペへの挑戦を決める第9話から第10話を観てこちらも励まされたような気持になったり、魔法に対する罪悪感やじぶんへの失望と不安で全てがひっくり返ってしまう第11話を観て心臓がつぶれそうに苦しくなったりもした(第11話は安達と黒沢を演じる赤楚衛二さんと町田啓太さんのお芝居があまりにも真に迫っていて圧巻で、それゆえ余計に辛かったというのもある)。その分、彼の思いが昇華する第7話や第12話を観た時に感じるよろこびは大きくて、やっぱりこちらも救ってもらったような気持ちになるのだった。

 安達は黒沢をはじめとした周囲の人の心に触れながら、「彼らに寄り添いたい」という気持ちを強め、少しずつだがじぶんから動けるようになる。まさか「心を読まれている」とは思ってもいない相手のその心に、どんなふうに声をかけたら寄り添えるかを考えて、きちんとじぶんの言葉にして伝えられるようになっていく。
 彼が勇気を出して動けるようになったきっかけとして、心が読める魔法の存在は確かに大きかった。けれども、ドラマの中での安達のモノローグなどを聞いていると、元々彼は人の心を慮ったり、誰かの痛みに寄り添おうとしたりすることのできるやさしさを持っていたようにもみえる。その上で、魔法に背中を押され、少しずつ、じぶんにも何かできるのではないかという思いで前に進めるようになっていったんだろうと思う。
 ちなみに、そういう内面の変化を反映するように安達の表情や瞳の輝きも徐々に変わっていく。このあたり、彼を演じる赤楚さんや、演出を担った風間太樹監督らには脱帽するほかない。

 彼のそういう歩みがひとつ実を結んだのが、第7話の終盤で、安達が黒沢の思いに応える場面だった。
 第6話の最後から第7話の冒頭にかけて、じぶんの思いに歯止めが利かず、耐えきれなくなった黒沢から安達への告白が描かれ、その後、黒沢の回想が挟まれる。そこで視聴者に明かされるのは、黒沢が長年抱いてきた「外見しか見てもらえない」というコンプレックスと、7年前(ドラマのこの設定にはかなり驚かされた)に黒沢が安達を好きになるきっかけとなった出来事であり、そういうコンプレックスから彼を救うことになった安達の振舞いだ。
 7年前、新入社員だった黒沢は、酒席で取引先の社長からのセクハラに耐えかねて相手を怒らせた上、同席していた先輩社員が「顔だけが取り柄なのに立場をわかっていない」と話しているのを聞いてしまう。悪酔いしていたことに加えて心理的にも大きなショックを受けていたであろう黒沢は帰り道で倒れかけるが、それを助け、弱っている黒沢に「なんかいいな」と微笑みかけたのが安達だった。その時のことを思い返す黒沢のモノローグには「心に触れられた気がした」という一文が出てくる。魔法が使えるようになるよりも遥かに前から、安達は誰かの心に寄り添える気質を持ち合わせていたというのが感じられるエピソードかもしれない。
 回想が終わると、語り手は安達に切り替わる。先の告白では、黒沢は思いを告げた後、「やっぱり忘れて」「次会ったら全部元通りだから」と言って立ち去ってしまい、安達は何か言葉を返すことも引き留めることもできなかった(それはまだ安達自身の中で答えが出ていないのにいい加減なことを言えないという誠実さゆえだろう)。
 それでも安達は、黒沢との間であったことが頭から離れないでいるじぶんに気づき、彼のもとに走り、思いを告げる。
 安達は黒沢の思いを「なかったこと」にはしなかった。
 ドラマのプロデューサーである本間かなみさんは、インタビュー(「TV navi」2月号)で、「あるものをないものにしたくない」という思いを語られている。第7話の安達からの告白はそういうシーンの最たるもののひとつでもあったと思う。
 蛇足だが、告白の場面での「黒沢が好きだ」という安達の言葉は、ここまでモノローグの中にも出てくることはなく、黒沢に対して面と向かって、初めて発せられる。この演出が好きだ。ドラマ内のほかの登場人物はもちろん、視聴者にも先に聞かせはしないところが。

 原作と比べると、ドラマでは主人公の成長物語としての側面が強く出ていて、ラブストーリーを軸としつつ、もう一本、安達が殻を破れるか、じぶん自身を肯定できるようになるか、という筋がある。それから、安達と黒沢以外のキャラクターの人物像・背景も原作から改変されていたり、より肉付けされていたりして、彼らの物語も広がりをもっている。
 特に原作と大きく異なる人物として描かれていたのは、安達や黒沢の同僚の藤崎さんという女性。「恋愛に興味がない」という彼女の存在によって恋愛の価値が相対化されていたことの意義は大きいと思う。そんな藤崎さんの心の声を聞いた安達が、恋愛をしなくても、仕事を頑張っていて毎日楽しそうにしている彼女を肯定する言葉をかけるシーンも印象深かった。
 その藤崎さんは、最終話では「最近の安達くんを見て、前から興味のあった社労士の資格に挑戦しようと思った」と安達に話す。この場面での彼女の言葉は、「魔法がなければ自分には何もない」と絶望して、黒沢からも離れようとしていた安達に対し、そんなことはないと背中を押すことになる。
 「あるものをないものにしない」という、この作品全体に通じる主題がここにもあらわれている。
 ラブコメディとしてのコミカルさや可愛らしくほほえましい場面も単純に楽しくて好きなところなのだけれど、こうやって長文で感想を書くほどこの作品に惹かれたのは、そういうメッセージ性をもった人間ドラマとしての面にも魅力を感じたからだ。といいつつ、藤崎さんが黒沢の安達への思いにいち早く気づいて彼らを見守っているのを、視聴者の気持ちを代弁してくれているように思いながら楽しんで観ていたのも事実だが。
 第8話での安達の友人・柘植の台詞も、この作品の姿勢を反映したものだったと思う。
 小説家の柘植は、自分の家に荷物を届けに来る配達員の湊に恋をする。宅配のアルバイトをしながらプロのダンサーを目指す湊に柘植は言う。
「俺はお前を絶対に馬鹿にしない。笑わない」
 誰かの生き方を軽んじないこと。本気を笑わないこと。このドラマが心からの誠意をもって作られたのを感じられる場面だった。

 そういえば、さっき挙げた藤崎さんのように恋愛に興味のない人物というのは、こういうドラマでは見過ごされがちな立場の人だったと思うけれど、「チェリまほ」は殊更に少数派の人たちの存在を強調する作品というわけでもなく、もっとシンプルに、「そこにいる人」をその人として描いているという気もする。
 たとえば、ドラマ版のオリジナルキャラクターとして登場する安達の先輩・浦部さんは、安達が童貞なのを知ってからかったり(これに対しては安達本人が「セクハラですから」とはっきり言い返しているが)、仕事を押し付けたりする反面、愛妻家である一面や、仕事にやる気を出した安達をさりげなく応援したり気遣ったりするところもある人として描かれている。言ってみれば、標準的な「会社の先輩」像かもしれない。藤崎さんみたいな人も、浦部さんみたいな人も、否定せず、それぞれフラットに描写されている。「チェリまほ」の世界は基本的に「やさしい世界」で、それはともすれば理想主義的で非現実的になってしまうかもしれないのだけれど、そこにちゃんと立体感や温度があると思えるのは、そういう人物描写のたまものかもしれない。

 主人公の成長物語としての側面についてさっき少し触れた。それは安達自身がじぶんの殻を破り、「俺なんか」から脱却するまでの過程であるのと同時に、その彼の行動が、黒沢をはじめとした周りの人たちを救っていくというストーリーにもなっている。第7話では、回想のシーンで7年前の黒沢が安達に救われたことが語られ、安達の告白を経て、黒沢は7年間のじぶんの思いを受け止めてもらえたことを知り、もう一度救われる。その後、第10話でも安達は、完璧でいようとする黒沢に対して、じぶんといる時はもっと肩の力を抜いてほしいと告げる。
 「自分は見た目で得している」けれど、外見しか見られていないようで、だから「顔だけが取り柄」などと言われないように、仕事も人間関係もすべて完璧にこなして、本当の自分を見てもらえるように。黒沢が背負ってきた、ある種の呪いだと思う。ルッキズムとラベリングの呪い。「完璧でいたらちゃんと見てもらえるかも」という期待が、いつしか「完璧でいないと評価してもらえない」になり、「完璧でいなくちゃいけない」になって自分の首を絞めてしまう。
 7年前の安達の振舞いはおそらく黒沢の心を少し軽くしたけれど、長年積み重なったそれは思ったより強固で重かったのかもしれない。安達と恋人として付き合うようになってからも、黒沢はとことん相手のことを優先する。
 それが、もう一度安達の言葉に触れて氷解し始めて、最終話に至ってようやくほんとうの意味で「呪いが解けた」ように思う。これについては後でもう少し詳しく書く。

 少し話が逸れるが、「呪いを解く」という話で、2016年のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」(逃げ恥)を連想した。そこでも、年齢や性別のばらばらな登場人物たちが、それぞれの言葉で、わたしたちを少しずつ生きづらくしているものから、お互いを解放していくような物語があったと思う。「逃げ恥」の場合、「チェリまほ」以上に社会的な偏見や固定観念への言及も明示的でメッセージも前面に打ち出されていたけれど、通常は目立って上げられることのなかった声を掬い上げたり、ある価値観を相対化したりする点では共通していたと思う。
 とはいえ、じっさいのところ、そういう「呪い」は簡単に解けるものではないとも思う。個人的にも、社会的にもそうだ。ひとの考え方はそうすぐに変わるものではないし、社会もすぐに大きく動くというものではない。変われても思いがけないところでひっくり返されてしまうことだってあるだろうし、変えてみたらまた別のことで悩みもするだろうし。
 それでも一歩踏み出すこと、そうして道を模索しながら進んでいこうとする人の背中を押すのが、こういう作品なのかもしれない。

 ところで、誰かが一方的に相手に尽くしたり、助けたりするという役割を担うのでなく、登場人物がそれぞれにそれぞれを思いあう、救いあうという構図が見られるのも、このドラマの魅力のひとつだ。藤崎さんと安達のエピソードもそうだし、柘植と安達の間でもそういうやり取りがあるし、安達と黒沢の関係性というのもそうなっている。
 そのせいもあってか、このドラマでは全話を通して反復や対照になっているシーンが度々出てくる。ひとつひとつ挙げていくと切りがないので、メインのストーリー上、おそらく大事なシーンと言って良いであろう第7話の終盤と第12話(最終話)の終盤を取り上げたい。この二つのシーンでは、どちらも安達がじぶんの気持ちに気づき、黒沢のところへ走り、改めて思いを告げる。それを受けて黒沢が安達を抱きしめるという構成になっているけれど、ハグの意味は違っている気がする。
 第7話の安達の告白はもちろん安達本人の心からのものだけれど、この場面でのハグは、黒沢の思いを安達が受け止めるという意味合いが強いように見えた。「俺はこいつの心に触れるために魔法使いになったのかもしれない」という安達のモノローグがここで流れるのも、この場面では安達の魔法によって黒沢が救われたという印象を強める。
 対して第12話は、安達の思いを肯定するという意味が強く感じられて、ここでやっと安達も救われているという気がする。

 補足すると、第11話で安達は社内コンペのプレゼンに臨むのだけれど、本番前に偶然、審査員である企画部長の心の声を読んでしまい、部長がコンペの案のどれも好ましく思っていないことや、部長自身の企画への思いを知ってしまう。プレゼン本番、自身の企画への思いを説明できずに発表を打ち切られそうになった安達は、咄嗟に心の声で知った部長の思いと同じことを口走ってしまった。部長は彼を評価し、その様子を見た黒沢も安達を称賛するが、ずるをして評価されたと思っている安達はひどく後悔して、じぶんには何もないとまで思い詰める。コンペに挑戦する安達を、黒沢をはじめ、同僚や先輩は皆応援してくれていた。安達にとって、最後の最後で魔法に頼ってしまったという事実は、彼らへの裏切りにも等しかったかもしれない。
 ただでさえじぶん自身にどん底まで失望した安達に追い打ちをかけるのは皮肉にも黒沢のやさしさだ。「魔法なんてなくなればいい」と思う安達はそのために黒沢を利用しそうになるが、結局そんな自分をゆるせず、自己嫌悪や不安で混乱したまま、黒沢に魔法のことを告げ、離れることを決める。

 また話が逸れて申し訳ないのだけれど、第11話の後半を見ていて、佐藤多佳子さんの小説「黄色い目の魚」を思い出した。この小説の主人公の一人であるみのりは、人間関係に不器用な少女だ。けれども、もう一人の主人公である同級生の男子・木島と出会い、彼を好きになったのを入り口として、徐々にほかの人たちとの関わり方も変わっていく。彼女はそれをオセロに例える。黒ばかりだった盤面に徐々に白が増えていく。
 ところが小説の終盤で、ある出来事をきっかけに彼女の木島への思いが挫かれてしまう。重要な駒が白から黒に変わる。バタバタと盤上の色が変わって黒で覆われる。少しずつ積み上げてきたものが、その根底からひっくりかえってしまう絶望感。
 「チェリまほ」の安達の場合、変わったきっかけとして黒沢の存在もあったが、出発点に魔法の存在があったことが厄介だったんだろうと思う。ある日突然使えるようになってしまった魔法。彼にとってそれは自分の実力ではないし、いつかは消える力だ。見ている方からしたら、魔法はあくまでもきっかけにすぎず、安達が世界を広げてきたのは彼自身が随所で勇気を出して、誰かの心に寄り添おうとして、じぶんの言葉で相手に向き合ってきたからだとわかるのだけれど、第11話のエピソードは、元々自己評価も自己肯定感も低い安達にとって、それらをすべて否定するには十分なできごとだったのだと思う。
 「黄色い目の魚」では、結局みのりは「まだ全部が黒になってしまったわけではない、木島を嫌いになったわけではない」と気づき、木島もみのりにもう一度会うために行動する。「チェリまほ」の彼らもそうやって、もう一度黒を白に戻せると気づいて動けるといいと願いつつ、最終話を観たのだった。

 第12話のハグの話に戻る。このシーンというのは、藤崎さんや柘植の後押しを受けてもう一度じぶんの心に触れた安達が、やっぱり一緒にいたいと黒沢に告白した後のものだ。
 このドラマは「あるものをないものにしない」ということをさっき書いたけれど、最後に「ないもの」にしてはならなかったもの、しなかったものというのは結局、じぶん自身の心だったんだろうと思う。安達は人の心に寄り添ってきた半面、「俺なんか」の一言で、じぶんのことを蔑ろにするきらいがあった。
 じぶんのことを酷い奴だと言い、これからも何度も間違えるだろうという不安を抱えながらも、それでも黒沢と一緒にいたいと安達は言い切った。それを受けての黒沢からのハグは、何よりも彼を肯定するものだったはずだ。
 加えてこの場面で黒沢が言った、安達が魔法で心を読んでくれたから自分たちは付き合えたんだという、心を読む魔法を使える安達のことを受け容れる言葉と、それに続く「魔法は関係ない。安達を好きな気持ちに」「魔法があったってなくったって安達は安達」という言葉。弱いところもあるし、失敗もする、前に進めないこともある相手を、じぶんにとって唯一無二の存在だと言ってのけたこと。
 安達にとっては、じぶんが心の底から一緒にいたいと願う相手にそう思ってもらえたことで(それから、これは結構大事な気がするのだけれど、この黒沢の言葉は心の声ではなくてちゃんと声に出して告げられたものだった)もう一度「俺なんか」から抜け出す力をもらえただろう。
 それから、黒沢のほうでもここへきてようやく「安達じゃなきゃ嫌だ」という本音を伝えていて、このシーンに至って黒沢自身もほんとうに救われたのかもしれないとも思う。だから、第7話のハグは安達が黒沢を受け止めるものだったのに対して、第12話のそれは、黒沢が安達を肯定するのと同時に、じぶん自身のこともゆるすような、そんなものだったのかもしれない。
 じぶん自身の心にちゃんと触れて、改めて結ばれた最終話の二人を心から祝福したいと思った。

 安達も黒沢も、誠実さゆえに思い悩むし、相手を思うあまりじぶんを否定しそうになることもあるけれど、この作品では彼らをはじめとして、登場人物ひとりひとりの思いが取りこぼされることは決してなく、彼らの善意はどこかでほかの誰かに繋がるし、時間がかかってもその誠意は報われた。なにひとつ、なかったことにはされなかった。
 2020年のおわりに、そんな人びとの姿をドラマであれ応援しながら、こちらもやはり掬い上げてもらったような気がしたのだった。

 これだけ長々と書いてきてもまだ語り尽くせていないことはいろいろある。評論家でもないのにあまり出ばったことを書くのは恐れ多いが、出演者のみなさんの演技が素晴らしかったことは言うまでもないし、演出について言えば、映画を観ているような映像の質感、光のつかい方も印象的だった。「心の声が聞こえる」という設定上、触れる時の音が強調されているのだけれど、それ以外にも呼吸の音や衣擦れの音のような演出が繊細だったことや、サウンドトラックがとてもよく、効果的に使われていたことも挙げたい。制作にあたっても、ほんとうに細部まで神経を張り巡らせてつくったのだろうと思う。

 最後に、これはほんとうに蛇足だけれど、最終話のラストシーンがよかったので書いておきたい。
 仕事を終えた安達と黒沢がオフィスから出てくる。お互いに軽口をたたき合ったりしていて、その距離感が、第8話以降で恋人になってからのものとも少し違っているように見える。二人がほんとうにお互いに心を開いて、対等な恋人同士になったような。この空気がとてもいとおしく思われた。
 そうして二人が乗り込むのは、安達が初めて黒沢の心を読んだ会社のエレベーター。物語の始まりの場所に帰ってきて、そこで二人がキスをしようとする瞬間に扉が閉じて、幕引き。
 なんというか、とても粋だ。いい余韻が残った。

 ドラマを見始めてから最終話の放送されたクリスマスまで(ちなみに最終話は物語の上でもクリスマスで、そういうところもにくい演出だった)心から楽しませていただいた。ありがとうございました。

書くことを続けるために使わせていただきます。