病型確定


少しずつ慣れてきたころ

入院してすぐは表皮水疱症の栄養障害型と言われていました。表皮水疱症の患者の約半分は栄養障害型ですので、娘もそのつもりで、退院に向けての日々を過ごしていました。

相変わらず毎日のように水疱やびらんができていました。高熱が続き、CRPの値も高いため抗生剤の点滴もしていました。治療法ないならすぐ退院かなと思っていたのに、1ヶ月経ってもまだまだその気配はありません。病状は悪化していたものの、しっかりミルクは飲めていて、順調に体重も増えていました。新生児期が終わる頃には追視をしたり、手足もよく動き、発達は問題なさそうです。私は皮膚処置の練習を始めて半月ほど経ち、まだ分からないことがたくさんありつつも、少しずつ慣れてきていました。

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表皮水疱症友の会

入院から3週間ほど経った頃、表皮水疱症友の会の勉強会に参加させてもらい、そこで栄養障害型の4歳の女の子に会いました。手や腕に瘢痕はありましたが、元気に遊びまわっている姿は息子と変わりなく、娘も大きくなればこんな風に元気に遊べるのかなと、不安な毎日のなか少しだけ希望になりました。

表皮水疱症友の会 DebRA Japan
http://debra-japan.com


嫌な予感

病型が宣告される数日前、皮膚科の主治医から「ジェイスは保留にさせてください」と言われました。そして、夫が来院できる日に話があると。

この時点で嫌な予感はしていました。ジェイスが使えるのは栄養障害型と接合部型なので、「不可」ではなく「保留」ということは、もしかすると・・・。娘はびらんや水疱ができても、瘢痕がなくきれいに治っていました。栄養障害型は瘢痕が残るとどこかで見た記憶があったので、その点もずっと気になっていたことでした。


病型の宣告

夫と二人で病院に行き、いつものようにすやすや眠っている娘の顔をみてからカンファレンス室に入りました。嫌な予感はしながらも、この時まではなぜかまだ希望を持っていました。

皮膚科の主治医から、娘は接合部型のなかのヘルリッツ型であると言われました。生命予後が悪く、感染症からの敗血症や心不全で、ほとんどが1歳未満で亡くなってしまう病型です。(いまは重症汎発型 JEBというみたい)

接合部型にもいくつか病型があります。ただでさえ少ない表皮水疱症の中の、たった7パーセントの接合部型の中の、一番重い病型だと。

わかっていてもショックでした。さすがに涙が止まりませんでした。「私、なにか悪いことしたっけな」「病気で産んでしまって、娘に申し訳ないな」などと考えながら、その後の話を聞いていました。

本人、両親の遺伝子検査が可能なので、検査を受けるか決めるように言われました。2歳の息子は、成人して本人が希望する場合には検査ができるとのことでした。遺伝かどうか分かったところで、治療ができるわけではないので、この時は何のためにするのかよく理解できていませんでした。もともと子供は2人のつもりでしたし、娘のあとにもう一人産むなんてまったく考えられませんでした。今思えば、この時点で即検査しておけばよかったです。結局、3か月後に遺伝子検査をすることにしたのですが、検査から半年以上たった今でも結果の連絡が来ません。コロナの影響ではなかろうか・・・と思っています。(たしかPCR検査も遺伝子検査だった)


また、ジェイスについては「できるけど、おススメしない」ということでした。植皮部は4日間洗うことができないそうで、その間に感染するリスクを考えると、確かにやめたほうがいいだろうなと思い、しないことにしました。

生まれたタイミングでちょうど保険適用になったジェイス。とても素晴らしいニュースで、ぜひやってみたかったのですが。

水疱ができない正常な皮膚がある患者は、原因となる先天的な遺伝子異常がいつの間にか自然に修復される「復帰変異モザイク」という現象がおきているため、その皮膚を培養し植皮することで正常な皮膚を増やしていく?というような治療としてジェイスが使われようとしているそうです。娘の場合は、全身どこにでも水疱ができていましたし、年齢的にも「復帰変異モザイク」は発現していない可能性が高いということでした。

難病「表皮水疱症」根治法を確立へ 北大の研究班 患者の細胞培養し移植
https://raresnet.com/20190508-2/


最後は、家族で過ごす時間をたくさんとれるように、退院に向けて準備をしましょうというお話で終わりました。部屋で夫と二人にしてもらいましたが、何も話すことはありません。できることをやるしかないよね、と言ったような、言われたような。娘の沐浴をして帰る予定にしていましたが、さすがに無理だなと思い、そのまま帰宅することにしました。

できることをするしかない

帰宅してからは、なにも考えたくなくて、夕方保育園のお迎えの時間まで寝ました。

息子が帰ってくれば、食事、お風呂、寝かしつけと、嫌でもいつも通りの日常を過ごすことになります。これは本当に救いでした。翌日は土曜日で保育園がお休みのため、一日中息子と二人きり、ぼーっとする時間はありません。

宣告の日の翌週には退院カンファの予定になっていました。娘のために、病院関係者だけでなく、退院後にお世話になる訪問看護ステーションの方も参加されます。退院後についての不安や質問を解消する貴重な機会なのに、自分が泣いていては話になりません。くよくよ考えても何も変わらない。できることをするしかないと、週末の2日間で気持ちを切り替えました。


人生100年時代の令和に

とはいえ、ふと思い出しては涙がでる日が続きました。最後までそうでした。なんなら、今も。

その時ちょうど、落合陽一さんの『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書』を図書館で借りて読んでいるところでした。

宣告の日、帰宅してすぐ本のタイトルが目に入り、100才まで生きるこの令和の時代に、たった1年も生きられない命があるなんて…、と思ったのを覚えています。


次はNICU退院までのお話です。



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