パズルのピースを仕舞い込む日
下記の造語の続き。
ネットの海にこそほとんど上げてなかったけど手帳に書き留めたりして楽しんでいた。
ラジオ、テレビ、動画配信などのトーク番組、SNS発信、Web記事、本の記事。
読んで楽しんでいた。
特に推している人のエピソードや好きなものの話を聞き留めるのが楽しかった。
件数が少しずつ増えていって、パズルのピースがストックされていくとたまにピースがパズルにハマらなくなることも出てくる。
同じ軸に入りそうなのにかっちりハマらないのだ。
そこにあるのは矛盾、誤配信。あとは悪意ある第三者による"言葉だけあっていて意図をわざと汲み取り違えて発信"
齟齬が発生するピースの片方が本人発信だった場合は本人発信のピースを選んだ。
どっちを信じるのは個々の自由。失望するも信用するのも個人が決める。
けれど矛盾を感じる互い違いのピースが両方とも本人発信だった時はどうなるのか。
例えばまあ21年の夏と22年も今、とか。
これは時期が違うということは心境の変化があったのかもしれない。
Aを否定している当人の行動を別の媒体では他人が行動していると想定した上でさらに否定する。
ご自身のことを肯定しながら同じ行動をとった他者を否定する。
清も濁も呑み込むにしても濁のなかに輪ゴムみたいなループがいくつも絡まっていて、それを全て肯定することなどとても難しく感じた。
ただでさえ知能指数が低く頭の回転も遅いわたしに理解できるわけもなかった。
ひとばんしっかり考えた結果、ピースを仕舞い込むことに決めた。ノートを切り離し、差し上げようとしていた(このご時世だから本当にあげることはしない)お菓子の中身を出して瓶の中に詰めて強く封をした。
そうすることしかできなかったくらいにわたしの心は狭いのだった。
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