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“だいじょうぶ”の度合い

“だいじょうぶ”の度合い、程度が、相手によって大きく違うことを
ずっと感じてきた。

それは、その人とどれくらい仲がよいかとは、必ずしも結びつかない。
“だいじょうぶ”、の度合いなのだ。

(ここで「仲がよい」は、
一緒によくいる、会話が多い、打ち解けている、親しい、としておく。)


私は、家族と家族以外の人といるときでは、身体と心のゆるみ具合が明らかに違う。

だらしなさ、気を遣わない程度、とも言える。
見捨てられない、離れていかないでくれる確信の度合い、
とも言えるかな。

家族に話さず、他の場で話せる事柄もある。
ただ、“だいじょうぶ”の度合いはというと、

自分一人のときを0とすると、
ルーナ(うさぎ)といるときが1くらい、
家族といるときが5くらい、
友人といるときが50くらい、

のようになるわけだ。

注:0〜100で数字が小さいほど楽チンとする。

同じ人に対してであっても、
体調や、周りの環境、相手のその日の表情や雰囲気によっても変わる。

もう一つややこしいのが、
数字が大きい人といるのは
好きでないか、楽しくないかというと、
そんなことは決してない。

みんなと一緒に、ひとつのものを作っていくことが大好きだし、
コーラスも迷わず続けている。


―――


“他人(家族以外の人)って信頼できるんだ。”

私の存在を、絶対に傷つけられないという感覚。
今だから、それを説明できる。

はじめて感じたのが23歳のときで、
そのとき、他人全体への警戒心がやわらいだのを感じた。

そのあと、
傷ついたり、傷つけてしまったりで、
またバリアを張りなおす感覚があった。
そのバリアは、蚊とゴキブリには効かないみたいだけど。


警戒心、恐怖心が強いのは、
幼い頃にどん引きレベルの人見知りだったことからも、
生まれつきとしか言いようがない。


最近、また少しバリアは薄くなっている気がする。
そう感じるとき、嬉しさと同時に、怖さもあったりするのだ。


―――

仲がよい人と会った後でいつも、
「どうしちゃったの?私。」
というくらい疲れてしまって、
そのことに落ち込む時期が長かった。

イヤだったわけでも、何でもないんだよね。

疲れないように調整できたらいいけれど、
今のところ私はできていない。


でも、疲れることを見込んで予定を入れるようにしているかな。
具体的には、新しいことを複数同時に始めないようにしたり、
週の中に、ほんとのほんとに何にも予定のない日、を作っている。

体調のよくない日は、自分ひとりの予定なら変更もする。


自分の身体と心は、交換はできないし、
一日預かってもらうこともできない。

上手に大切に扱うしかないのだが、
それがなかなかに難しい。


そんなことを思う、今日このごろ。

2024.6.29


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