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失うもの、手放すもの

ドイツ帰りのエミールの友達エマに薦められて、”Still Alice”(邦題:『アリスのままで』)を観た。2014年のアメリカ映画で、ジュリアン・ムーアがその年のアカデミー女優賞を受賞した作品である。著名な大学教授のアリスが、50歳という若さにしてアルツハイマーを煩い、自分の意志に反してどんどん物事を忘れていき、「自分が自分ではなくなってしまう」という悲しみに打ちひしがれていくなかで、家族との愛を確かめ合う話である。

劇中ではエリザベス・ビショップの詩、”One Art(『ひとつの術(すべ)』)”が引用されている。この詩は『イン・ハー・シューズ』にも登場する、わたしも大好きな詩だ。わたしたちが日々、人生を通して、何かを、誰かを、そして記憶を失うということについて、決して悲観することではない、と作者自らと読者のわれわれを勇気づけるような、それでいてやはりとても悲しい詩だ(こちらのブログに原語と日本語訳の詩が掲載されている)。


大事なものを失ったり、誰かを失ったりすることと同じように悲しいことは、誰かを愛していたあの感覚を忘れてしまうこと、また、自分が自分であった頃の自分そのものを失ってしまうことだ。自分はここにいるのに、まるでこの「自分」は自分の生きてきた「自分」ではないかような感覚。老いや病気、事故によってもたらされるこの感覚が日本から離れた土地に住むことを選んだわたしにとってもとても身近なものに感じさせられた。(誤解を招きたくない点は、老いや病気、事故によって引き起こされる数多の悲しみや肉体的、精神的な傷と、この感覚が同等だと言いたいわけではなく、「愛していた誰かを愛していたというその記憶を失ってしまう」という喪失の悲しみと並立するようなところに「自分を失う」という感覚があるのではないかということだ)

住む土地が変わり、使うことば(フィンランドの公用語はフィンランド語とスウェーデン語)が変わり、付き合う人が変わり(日本で大好きだった友達はみんな、残念ながらフィンランドにはいない)、コミュニケーション方法が変わり、仕事の仕方、政治システム、買い物の仕方、何もかもが変わり、やはり不自由さを感じる時が多々ある。まるで自分が無力な赤ちゃんのように感じる瞬間も毎日のように襲ってくる。赤ちゃんだったら足を引っ張っても役立たずでもかわいいけれど、大の大人なのに何もできない、何も知らないという状況にしばしば立たされるのは辛いことだ。

サマーコテージまでのボートの漕ぎ方もサウナの作り方も知らず、教えてもらわなければならなかった。こちらの子は幼い頃から知っている当たり前のことなのに。結構根こそぎプライドをもぎ取られたような感じ。わたしのしゃべるフィンランド語やスウェーデン語もおそらく赤ちゃんのようだ。日本で当たり前に知っていたこと、話せていたこと、自信を持てたことがここでは全く意味をなさない時も多くて、日本にいた時のわたしと同じ評価をあまりされなくなった(ように感じる)。まるで自分が自分じゃないような恐ろしい感覚だ。

でも、今はとにかく、クヨクヨしないで、なんとなーくこの役立たずの期間を楽しむのもいいと思っている。10年後にはきっと、ことばはもう少し思い通りに使えているだろうし、この国のシステムのことも未知のままではないだろう。わたしの人生は今始まったばかり、と思うとやる気もでてくる。


ところで、フィンランドの人々は不便さをエンジョイするのが得意だと思う。この考察については1年以上前に『人は面倒くささを求める生き物』や『サマーコテージでお皿を洗うという行為』にも書いたが、それからも色々な節目でこのことについて再確認させられている。

モノがないこと、不便であることをフィンランドの人々は悲観視しない。たとえば、日本の人々に比べて、こちらの人々は、とにかく物を買わない。古いものをいつまでも大切に使う。長く使うから、結果、いい物だけを作る。

フィンランドをはじめ北欧諸国は美しいデザインの雑貨や家具などで有名だが、その美しいデザインの背景には、この国ならではの習慣や哲学がある。

冬が長く厳しく、家の中で過ごす時間が多いために、フィンランドの人々の家に対するこだわりはとても強い。過ごしやすいようにと、部屋や庭は常にさっぱりと片付けられていて、お気に入りのものだけを置いている(おばあちゃんのそのまたおばあちゃんから受け継いだアンティークの棚やデザイナーの友達が作ったクッションカバーなど、思い入れの強い物を持つ人が多い)。高緯度のために太陽の出現率が低い暗い冬に少しでも光を感じるべく、部屋にはキャンドルが点在している(フィンランドの国民一人当りのキャンドル消費量は世界一)。

また、フィンランドの人々の思考体系は非常にロジカルなので、家具や食器は機能性や合理性を重視する傾向にある。そして他のヨーロッパ諸国に比べて突出して自然が大好きなので、自然の素材やモチーフをデザインにフィードバックする手法を得意とし、人間工学に基づいた居心地の良い、タイムレスな製品を生み出すことに力を注いできた。北欧デザインはオシャレさ追求した結果の産物というよりは、こうした背景を持つのである。


スーツケース大小1つずつだけ持ってエミールがクラスメイトとシェアしていたアパートに転がり込んで来た時は部屋のシンプルさに驚いた。本当に物がなかったのだ。シェアメイトが引っ越した数日後に見た20畳ほどのリビングルームは、ものの見事に空っぽだった。そこから色々なものを譲り受けて今ではだいぶ物も増えたが、家にある家具は、ほぼ全て誰かからもらったものだ。エミールが履いているズボンでさえお姉ちゃんかお母さんのお下がりだし、セーターやシャツはお父さんかおじいちゃんのお下がりばかり(お母さんが編んでくれたものもある)。

10脚ほどある椅子もお父さんがごみ捨て場から拾ってきたもの(でもアアルトデザインの椅子!)だし、先週リビングに来たニューカマーも友人ニナからもらったダイニングテーブルだ。来た時は缶切りもなくて、料理中にどうしても開けたい缶があった時は工具箱からドライバーで開けたりしたけど、それもいい思い出だ。花瓶がないので砂糖などを入れる瓶に花を飾っているし、ミキサーがないので何もかも手動でつぶしたりすったりしている。不恰好だし時間はかかるし不便だけど、まぁこれも楽しいからいっか、という感じだ。

パリに住んでいた時も、フランス人はものを買う時はよく吟味して、本当気に入ったものだけを、時間をかけて選び、大切に長く使う、という習性を見てきたが、フィンランドに来てますますその姿勢についての手ほどきを受けてきたと思う。


日本にいる時から思っていたのだけれど、日本にはモノが溢れすぎていると思う。ドンキホーテ、100円ショップ、家電店、コンビニなどいつでも気軽に、そこまで必要ないモノを買える店が乱立しているし(フィンランドにはコンビニらしいコンビニも自動販売機も殆どない)、菓子パン一つにしても手を替え品を替え本当にビックリする数の商品が次々と現れてお店に並んでいる(フィンランドでも例えばキオスクで菓子パンは買えるが、ベーシックな商品だけ、ほんの数種類あるだけ)。

豊かなことは良いことかもしれないが、不要なモノに囲まれながらも常に物欲にまみれた暮らしは、わたしたちが本来欲していた豊かさというものをもたらさないのではないだろうか、と思う。

実はこのことはフィンランドに住むようになって感じ始めたのではなく、大学2年生の頃あたりから、通学や通勤の帰り道でコンビニに寄るのは、何かよっぽど必要なものがない限り避ける、というルールを決めていた。理由は定かではないが、コンビニというものは、人間の満たされない欲の部分に呼びかける甘い悪魔の声を発する場所だと思うようになったのだ。

そこに行っても、何かを買っても、心は決して満たされない、ということは知っていた。むしろお金というものを失う。(コンビニがあったらから窮地を救われたとか、犯罪を防げたという話を持ち出したい人もいるかもしれないが、ここではもっと根本的な話をしたい)


フィンランドに来てからというものやたらケーキを食べる機会が増えたが、それは誰かが作ってくれたり自分で作ったりするからで、日本にいた時はおやつをはじめ間食を殆どしなかった。そのためコンビニで新商品のデザートやら菓子パンやらアイスクリームを買うことも、コーヒーも飲まないのでスタバやタリーズでなんちゃらフラペチーノを買うことも一切なかったし、興味も一切なかった。

フィンランドではハーゲンダッツやカップラーメンの新作などの話題は日常の会話にもソーシャルメディアにも登場皆無なので、やはり人は自分にとって居心地の良い土地にたどり着くようにできているのだなぁと思う。こちらではケーキは作るもの、コーヒーも淹れるものであって消費するものでも記号(ブランド性を持つ、オシャレさや階層、ステイタスの表象になる)でもない。

消費社会ではないので、モノと記号の繋がりが少ないし、とにかく誰も買わないから新製品はなかなか登場しないし、売られないのだ。消費社会にどっぷり浸かる人々からしたら悲しいことかもしれないが、消費することでワクワクするより、自ら生み出すことでワクワクすることをこちらの人々は選び続けているとも言える。これはなかなか楽しいことだ。


雑貨・インテリアスタイリストの第一人者としてアンアン、オリーブ、クロワッサンなどの雑誌で大活躍した吉本由美さんは、クロワッサンで81年から始まった『雑貨に夢中』の連載によって雑貨ブームが起き、紹介するものがバカ売れするようになったり、雑誌が発売した翌日には売り切れになっていく状況を見て戸惑いを感じるようになった様子をこう話している。

「何色かあっても、雑誌に出た色しか売れないとか、お店に電話注文が殺到して、え、実際見ないで買うの?って驚いた。わたしとしては自分で歩いて探し出す喜びを伝えてるつもりだったのに、誰も探しになんか行かないの。モノが手に入ればいいの。でも、そんなんじゃ、愛着も生まれないよね。こんなちっぽけな雑貨よ。それを、ほら、かわいいモノがあったよ。見て、ってささやかな喜びを手渡ししたつもりだったのに、そういう風にはとってくれないのね。どうしても消費になっちゃう。」


日本では近年、北欧の雑貨や家具、デザインが注目されている。雑誌やインターネットでは頻繁に特集が組まれたり、本や雑誌までもが続々と出版されている。素晴らしい文化としてのデザインや雑貨が注目され、人気が出ることは素晴らしいことだと思うが、記号としての「北欧」に憧れ、モノばかりを買い漁る人を見ると、それらの行為や欲望は、素晴らしいデザインやプロダクトが生まれた背景にある哲学や考え方とは異なるところに位置しているものではないか、と思ってしまう。

かつてとても貧しい国だったフィンランドが、他のヨーロッパ諸国に影響を受け、遅れて産業を推進させていくなかで生み出していったデザインは、国民が数少ない持ち物を長く使えるよう、タイムレスに愛していくためのデザインだった。もちろん、これから買って長く使うつもりの人もいるだろう。でも、アウトレットなどに行って何十とお皿や布を購入している人を見ると、それは本当に必要なものだったのだろうか、と、一度問うてみるのがいいのではないか、と思ってしまうのだ。

もし家に、十分な数のお皿があるのならば、それをまず大事に使うことから始めるのはどうだろうか。または仮に家にあるモノが要らないモノだらけで、もっと「オシャレ」な「北欧」のモノが欲しいという理由があるのならば、まずはモノに対しての姿勢、買うという行為に対しての姿勢を見つめ直すところから始めるのはどうだろうか。それが北欧的なのではないか、とわたしは思う。好きなものを買うことは決して悪いことじゃない。でも、不要にも関わらずモノに踊らされることは、快適な暮らしの逆を行く。


フィンランドのデザインとその背景について、わたしとちょっと似た視線でほぼ日編集部の武井義明さんも記事を書いていたので(自分の文章のあとに紹介するのはどうかと思うほど武井さんの方が的を得た、それでいて優しい文章を書いているが)ご興味のある方はぜひ。

モノから解放される喜びとともにもう一つ手放せたら素晴らしい、と思うことに自分や他人の見た目に対する強すぎる美意識やコンプレックスがある。こいつはなかなか厄介で、日本の人と話しているとこのルッキズムはかなり根深いところにあるものだと気づかされる。

この点については、日本人とフィンランド人の視座には大きな大きな違いがあると思う。次回はぜひ、このことについて書きたいと思う。では、もいもーい!(フィンランド語でさようなら)

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【過去テキスト】

歳を取ることは結構イイこと:
https://note.mu/minotonefinland/n/n9af24cef38b0?magazine_key=mf53e59f9f07a

妄想フィンランド7日間の旅に皆さんをご招待:
https://note.mu/minotonefinland/n/n1dc2b5304706?magazine_key=mf53e59f9f07a


フィンランドのロヒケイット(サーモンスープ)とレンズ豆のスープの作り方:
https://note.mu/minotonefinland/n/n72df81a29c36?magazine_key=mf53e59f9f07a


せかい食べ物紀行―第二話、フィンランドとパイヴァン・ケイット(本日のスープ):
https://note.mu/minotonefinland/n/na05b7d010c15
シネマレビュー: Casse-tête chinois(邦題:ニューヨークの巴里夫):
https://note.mu/minotonefinland/n/n924cbf1aad4a?magazine_key=m86a5f3f1198a

シネマレビュー: Land Ho!
https://note.mu/minotonefinland/n/n1f7e8e240883

1年前の今日:
https://note.mu/minotonefinland/n/nc6c323670bea

せかい食べ物紀行―第一話、パリとアップルタルトとトマトと玉子の炒め物:
https://note.mu/minotonefinland/n/n72a918228e5c

フィンランド―若手起業家たちの生まれる地:
https://note.mu/minotonefinland/n/ncb081698cdf8

かつてmixiで友だちに書いてもらった紹介文を振り返ってみた:
https://note.mu/minotonefinland/n/n1f9ed7196e07

アールヌーボー、ジャポニズム、サイケデリック、女性:
https://note.mu/minotonefinland/n/n8e2725c2bdcf

時の宙づり:
https://note.mu/minotonefinland/n/n2a182b91e783

不思議惑星キン・ザ・ザ(Кин-дза-дза! Kin-dza-dza!):
https://note.mu/minotonefinland/n/n3d2e049be0ff

日本からのサプライズの贈り物:
https://note.mu/minotonefinland/n/n1f33b547e2f4

フランスについて、2014年夏に思うこと:
https://note.mu/minotonefinland/n/n5bbe675bd806

エミールの故郷への旅(前編):
https://note.mu/minotonefinland/n/n8d7f3bc8d61d

エミールの故郷への旅(後編):
https://note.mu/minotonefinland/n/n6ccb485254c2

水とフィンランド:
https://note.mu/minotonefinland/n/n82f0e024aaab

ヘルシンキグルメ事情~アジア料理編~:
https://note.mu/minotonefinland/n/nb1e44b47da30

わたしがフィンランドに来た理由:
https://note.mu/minotonefinland/n/nf9cd82162c26

ベジタリアン生活inフィンランド①:
https://note.mu/minotonefinland/n/n9e7f84cdc7d0

Vappuサバイバル記・前編
https://note.mu/minotonefinland/n/n2dd4a87d414a

サマーコテージでお皿を洗うという行為:
https://note.mu/minotonefinland/n/n01d215a61928

でも、かわいいものはかわいいよね。わかる。

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