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「弱いい派」は自称できるか?:「noteを週に一回更新する!」という目標を立ててから一ヶ月が経った

「noteを週に一回更新する!」という目標を八月の目標として立てていたが、気がつけば八月が終わってしまっていた。

何かをつくる時間というのを意識的に取り続けないと、と思いつつ、やるべきあれこれで、「気がつけば○○が終わっていた」というパターンに陥りがちである。
気がつけば夏も終わるし、気がつけば今年も終わるし、気がつけば大学院も卒業しているだろう(無事、卒業できればの話ではあるが・・)。

何かを作り続けていないと、お腹のなか(ちょうど、胃と小腸のあいだくらい)にある魂のようなものが、セピア色にくすんでしてまって、そんな1日は、Youtubeを見ていたら終わっていたなんてことになりかねないから、魂の色については、いつだって注視しなければならない。



7月の末に、『弱いい派』の舞台を見たのだった。

「弱いい派」というのは、

そんな第3弾『もしもし、こちら弱いい派─かそけき声を聴くために─』は、ここ数年、シンクロニシティのようにさまざまな場所で起きている“弱さの肯定”が共通点の3団体、いいへんじ、ウンゲツィーファ、コトリ会議が参加する。“弱さの肯定”とは、今の時代を環境的にも内面的にもストレスなく生きていけるグループに属さない人達が、従来の勝ち負けや速さや声の大きさといった価値観をすり抜け、とりあえず明日を生きていこうとするささやかにポジティブな姿勢。それを演劇作品として創作する人々を「弱いい派」と名付け、集まってもらった。
(徳永京子さん:https://www.engekisaikyoron.net/yowaii_intro/)
(太字は鈴木による強調)

とのことで、つまりは、「弱く(ても)いい派」ということなのだと思う。
勝ち負けや速さ・声の大きさということをすり抜け、とあるから、強い/弱いという二項対立を脱構築して、「弱い」と呼ばれつつも、したたかに生きていく姿勢を評価して、「弱いい」と呼んでいるのだろう。

「弱いい」という名称が二項対立から抜け出ることを成功させるタームたりえているのかはさておき、「弱いい」とカテゴライズすることの、漠然とした違和感について、今日は少し言語化しておきたいと思う。

(Twitterで、そもそも「弱い/強い」という区別自体が既存の社会構造の産物であって、「弱いい」というフレーズはそのことを見逃しやすくなるのではないかというようなツイートを見たけれど、そもそも、「弱(くても)いい派」という意図で生み出された言葉であるように思うから、そのような批判はあまり当たっていないように思う。この記事では、それとはちょっと違った観点から、鈴木が思っていることを書き留めておきたい。)



社会学者のHarvey Sacksが指摘しているように、カテゴリーには、いわば、管理者がいる。たとえば、道を改造したバイクで走りまくっている若い人たちを、(街の人たちで)「珍走団」と呼ぼうという活動が何年か前にあったけれど、あれは、「暴走族」という呼び名から 「珍走団」という、街の人たちが管理できるカテゴリーのもとで記述しようというプロジェクトだったのだと思う。そうすることで、それが名指している対象は同一だけれども、異なる文脈に、その名指される対象を置くことができる。
重要なのは、その用語を用いることができるのが、本人たちではなくて、本人以外の人たち(たとえば、大人・街の人たち)であって、名指される対象が、その呼び名を自称することは必ずしもできない、ということである。

今、世界中で起きている、差別解放運動は、「自分自身の呼び名を自分たちで決める」という側面を持っているように思う。いわば、カテゴリーの管理を、自分たちのもとに引き戻そうという運動である。


この観点から、「弱いい」という名称を考えたとき、私は、「弱いい派」というのは、やや困難を孕む名称のような気がしている。つまり、「弱いい」であることを自称できないということに、この名称の困難さがあるように思う。

「弱いい派」であるということを、ある劇団が自称するのは、結構難しいだろう。(「私たちは弱いい派です」というように発信する劇団があったら、私は「したたか派」と呼びたい気がする。それはそれで、悪いことではないのだが・・。)
つまり、「弱いい」というカテゴリーの管理者が、名指される本人たちではなくて、外から名指す人たち(たとえば、劇評家)だけのものになってしまっているというのが、このカテゴリーが目下孕んでいる一つの問題点のように、私は思っている。
自身の作品に、作家自身が、「弱いい」というラベルを貼るのは、なかなか難しい。

もちろん、批評家が、ある同時代の作品群をカテゴライズするときに、自身の概念を生み出すことは悪いことではないし、むしろ議論を呼び起こしているという意味では大いに成功した批評家の概念ではあると思うのだけれど、「弱いい派」の場合、(作品の中身からして)作家個人の当事者運動と並行している部分もあり、問題がややこしくなっているように思う。

「弱いい」派は、その作品の特徴の一つとして、作家自身の体験に根ざした「弱さ」の体験を作品として立ち上げているという点がある(と私は思っている。作家によって多少異なる点もあるだろうけれど)。
そういう意味で、ある作品を「キュビズムだ」と呼ぶのとは、やっぱりちょっと違うような気がしていて、ある作品を「弱いい派」だと呼ぶのは、作品だけではなくて、その作家自身への評価も部分的に含んでいるような気がしてしまう。
そうだとしたら、「弱いい」は、作家に対するカテゴライズでも、あるだろう。(ある作品を「キュビズムだ」と呼ぶことは必ずしも作家への評価を含意しないが、「弱いい」は、作家の人生に対する評価も孕んでいるように思う)

そのように考えたとき、ある作家を(あるいは、その人生を)「弱いい」と呼ぶことは、当人たちが自身の呼び名を自身が決めるという、差別解放運動の枠組みとは、むしろ相入れないときも、あるだろう。
人の人生を、一方的にカテゴライズすることにも繋がってしまうのだから。
(そして、そのカテゴリーは、当人たちが自称できるカテゴリーではないのだから。)


もちろん、(何度も言うようだけれど、)「弱いい」というカテゴリーが、それなりに論争を巻き起こしているという、その時点で、劇評のカテゴリーとしては成功しているように思う。
他方で、そのようにカテゴライズされることについての、何か、作家の側からの応答が、もう少し見てみたいと思ったショーケースだった。
(とはいえ、どの作品も大変面白かった。)


「弱いい派」をめぐっては、以下の記事で批評がなされているので、気になった方は、ぜひ。また、3劇団とも、次回公演の予定あるようなので、気になった方は観に行ってみるとよいと思います(劇場の感染症対策はかなりしっかりしていて、基本的には安全かと思われます)。


追記:
この記事、書き足そうと思って、下書きに入れたまま忘れていました・・。
弱いい派については、下記記事でも、また少し違う観点からいろいろ書いています。


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