できない、について

これからときどき、劇評のような、感想のようなものを書いていきたいと思います。
劇評というと、なにか的確なことを言わなければならない!という気もする一方、結局は自分にとってどのように見えたかということしか言えないような気もしているので、ひとまず、どのように私がその作品を観たのか、あるいは、作品を観て何を考えたのか、ということについて、綴っていこうと思います。


今日は、ジエン社さんの「わたしたちはできない、をする」みてきました。
たいへん興味深く観劇しました。



[あらすじ]
できないことを、できないままにしてしまって、
できると思っていたことは、どんどん遠ざかっていく。
一方で、それができてしまった時、わたしは、
できなかった頃のわたしに、二度と逢えないんだろうか。

(あらすじは公式サイトより。公式サイトには、この続きがあります。)

作品は、タイトルの通りで、公募で集まった俳優さんたちが、
入れ替わり立ち替わりで、「できない」をする、というものでした。それは、稽古場で出てきた、俳優さんたちが持つ様々な「できない」を演じているように見えました。

上演前、わたしはタイトルの「できない、をする」の、「、」が、何なのかということについて考えていました。
つまり、「できない”こと”をする」なのか、「できない”ことを示すこと”をする」なのか、などなど、あれこれと。

できない「こと」をするのだとしたら、もうそれはできてしまっているので、もはやそれはできることになってしまうんじゃないか、とか、
できないことを示すことをするのだとしたら、それは、「できないことを示すこと」をできていることになって、それもまた、できてしまっているのではないか、とか。
ぽやぽやと、妄想を膨らませながら、桜木町にあるスタジオHIKARIに向かいました。


わたしたちはできない、をする。日々している。わたしたちはできない。できないのに、そこにいる。
できない人達による相互互助を目的としたこのセンターに、比較的年齢の若い人々が集まっていた。
仮にここを、「できない園」と名付けてみようか。
「できない園」は、本来は自由に居る事ができる。また本人の意志で、今すぐここから居なくなることもできる(基本的人権のため)。通いの人もいるが多くは住み込みで。自分のできなさを他の人に見せたり、見せなかったりしながら、そのできなさを、「できるようになる」か、「できなくてもいいようにする」か。
(HPのあらすじより引用)

「できない園」という場所で、なんらかの「できなさ」を抱える人が、たくさん出てくる作品です。
そこでは、いろいろな作業(たとえば、機織りのような・・)をしている人たちが描かれます。

わたしは、この場面設定から、最初に「津久井やまゆり園」で起きた事件のことを最初に思い浮かべました。

 「しゃべれる、しゃべれる」――。検察側が読み上げた調書によると、植松被告に拘束された女性職員は利用者の女性が就寝していた部屋に連れ込まれ、「こいつは話せるか」と聞かれた。その女性はダウン症で話すことが困難で、「しゃべれない」と答えると、被告はその女性の首付近を3回刺した。職員は「しゃべれない人を狙っている」と気付き、その後は、各部屋に連れ回されて被告に問われる度に「しゃべれます」と答え続けた。
(毎日新聞より:https://mainichi.jp/articles/20200111/k00/00m/040/122000c

やまゆり園については、作中では一切言及されることはなく、だからこれは、批評というよりかはわたしの解釈にすぎないのですが、「しゃべれる/しゃべれない」は、「できる/できない」の発想と重なり合っているような気がしました。
わたしたちは「できる/できない」で世界を捉えがちで、それ自体は悪いことではないのだけれど(たとえば、私は2kmを走り続けることができないが、そんなに悪いことではないとおもう)、その誰しもが抱えうる何らかの「できなさ」が、排除することと結びついてしまうことは、恐ろしい発想だと思います。

でも、じつはこの発想は、やまゆり園の事件の加害者の中だけではなくて、日常のあちこちに散在しているような気も、しています。
それは、例の容疑者的な悪人が日常に隠れ潜んでいるのだということではなくて、わたしたちの本当に微細なやりとりのなかに、そういう発想がありうる、ということです。

今日見た作品には、たくさんの「できない」を抱えている人の「できない」が繰り返されるのだけれど、そういう些細な「できない」が、何回も何回も繰り返されているうちに、無意識に、自分の中に他者の「できない」への刹那的な苛立ちが芽生え始めているような気がしました。
そして、きっとその苛立ちは、(わたしの性格が特別に悪いということでなければ)きっと誰しもが、ふとした瞬間に持ち得てしまうもので、この、自分の中に起こってしまう刹那的な暴力性に、わたしは自覚的でありたいと感じました。

つまり、「やまゆり園」の被告のことを、史上稀に見る残酷な犯罪者として捉えるのは、確かに簡単で分かりやすいのだけれど、その悪の萌芽は、この社会で暮らしている限り、どのような善人のなかにも起こりうるのではないか、ということです。
(わたしは、「そんな苛立ちは自分には起こり得ない」と言い切れてしまう人の方が、恐ろしく感じています。)
そのようなことを妄想しながら、客席から「できない」を眺めていました。

少し話が変わりますが、わたしたちがある人について「できる/できない」と言うとき、実はその人の性質だけについて語っているのではなくて、その人の置かれている環境・社会についても同時に語っているのだと、最近考えます。

わたしたちは、ほんとうは無数に「できない」を持っているはずで、だけれど、たまたま、それが認められる社会に生まれているから、それが「できない」として見えることはなかなかなくて。
(たとえば、わたしが、朝起きて「空が飛べない」と言っても「だから何?」となるだろうけれど、「歩けない」と言ったら、それが「できない」として見えてくる、ということです。もちろん、みんなが空を飛べる社会だったら、わたしが「空を飛べない」こともまた、見えるようになるのだろうけれど。)

何が言いたいのかというと、なにが「できない」として見られうるのかは、事実として「できる/できない」こととはあまり関係がなくて、むしろ、その「できない」が観察できるような社会の方に原因がある、ということです。

そして、そうだとしたら、「できない」について語るとき、(例の事件の被告の発想のように)個人だけに目を向けてしまうのは、じつは「できない」の社会性を見逃していて、その見逃しは、ある意味で、社会の病理を個人化しているように私は感じています。
(つまり、社会の側に問題があるものが、個人の問題に置き換えられてしまう、ということです)
作中では、障がいを持つ人たちについて明示的に描かれることはなかったのだけれど、日常の「できなさ」と彼/彼女らの「できなさ」に本質的な違いはきっとなくて(シームレスで)、もし違いがあるように見えるのだとすれば、それは社会の側に問題がある、ということを感じました。

だから、この演劇はもしかしたら、さまざまな「できない」を丹念に繰り返して描くことによって、社会によって傾斜がつけられている「できない」を、均質的に・フラットに見せてくれたのかもしれない、・・・というようなことを、わたしは観ながら考えていました。

後半に出てきた「わかる/わからない」の話も、「できる/できない」の話と本質的につながっているような気がしています。
というのは、わたしたちが「わかる」と言えるとき、それは何か特定のことが「できる」ということを含意してしまうからです。
たとえば、「かけ算のやり方が分かっているけれど、わたしはかけ算ができない」と言うことのナンセンスさを考えるとわかりやすいかもしれません。あるいは、「この作品がわかる」と言うことが、「この作品についてある程度の論理性を持って語ることができる」ことを含意する、というように。「わかる」と言うことは、「何か特定の行為ができる」ということと結びついているように感じます。
だから、「わからない」についての台詞も含めて、徹頭徹尾、「できない」について語っている(示している?)作品だと私には感じました。

また、誰が「できない」のかが、俳優の交代と同時に入れ替わり続けることは、「できなくても存在していること」の示唆だと感じました。つまり、「できる/できない」は交換可能である一方で、存在そのものは交換できないことを示しているように見えました。
違う俳優が同じ役に入り込むことによって、「できる/できない」(あるいは、何を為すのか)を、存在そのもの(身体を持ってそこにいる俳優)から引き剥がすことは、存在を存在として描くことができる演劇でしかできないような気が私はしていて、その点において、「演劇をすること」と「生きること」が作中では結びついているのではないか、と。

演劇は、語らずとも、そしてなにも「できない」でも(そこに居合わせることすらできなくても)、存在しているだけで作品になりえるのかもしれない。
そんなことを感じました。



・・・あれこれ、好きなことを書き綴ってしまいました。(感想というより、妄想に近くなってしまいました、すみません。)
とにかく、大変興味深かったです。


ジエン社さんの次の公演は、5月に東京であるようなので、
ご興味持たれた方いましたら、ぜひぜひ。
私も観に行くつもりです。


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