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ひとを当てはめること

論考調の文体ばかり書いていると、
ほかの文体を忘れてしまいやしないかと、ふと、心配になる。

しばらく、戯曲やエッセイを書いていないし、書けなくなってしまうんじゃないか、と。noteでもこうして、語りまくっている始末である。

とはいえ、そんなことを心配しても、文体は口癖と同様で、流転し続けるものなのだし、心配したからと言って元に戻せるわけではないし、書きたいこともあるのだ。

それに、ある程度混み入ったことを伝えるなら、学問でも芸術でも、多少の難解さは避けて通れないと思う。

だから今日は、ちょっとだけ、難しめの話を話していこうと思う。
できれば、それをやさしく、話したい。
井上ひさし氏も、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」と仰っている。
ふかくできるかどうかは定かではないけれど、なるべく、やさしく。
思っていることについて語っていきたい。


学部の卒論では、「うつ病」という医者が使う概念が、市井の人たちが使うことによってどういうふうに概念として変化したのか、ということについて研究していた。
(よく、概念について語ると、定義を厳密にしろおじさんが現れるのだけれど、そもそも市井の人たちは厳密な定義にしたがって行動していない、わたしは人々について興味がある)

いま、いろいろな医療概念、とくに、精神疾患を元にしている概念(たとえば、アスペルガー症候群、ADHD、うつ病など)を、あちこちで耳にすることが増えてきて、もともとは医療概念ではないHSP(Hyper Sensitive Personの略らしい、直訳で「超敏感な人」)も、医者、または心理学が使っているかのような概念として、用いられている。

わたしは、こういう概念を、「生きづらい」と感じているひとや、その周りの人が使うことで、少しでも日常が豊かになるのであれば、その概念やことばを使うことに賛成なのだけれど、最近は必ずしもそういう方向性で使われてはいないような気がしていて、なるべく、簡単にこういう概念を使わないようにしている。
(たとえば、ある精神疾患の名前を、蔑称のように使ったり・・、など)

わたしは、そういう蔑称的な使い方に対しては、かなり否定的に立場を取りたい。
それは「おい、メガネ」的な悪口をやや専門的に言い換えているだけで、悪口性を隠蔽している分、悪質だと思うのだよな。

(わたしは、そういう蔑称が出てきても、ある意味で空気を読んで、しばしば受け流してしまっていたのだけれど、その読んだ空気は守るべき空気ではないので、今度からは、空気を読まずにビシバシ、突っ込んでいきたいと思う)


もともと、それぞれが持つ、異なった「生きづらさ」や生きる上での孤独に、寄り添うためのはずの概念が、人のレッテル貼りに使われてしまっている、ような、気が。

翻って、そういう使われ方の危険性を考えると、人を「うつ病」や「アスペルガー症候群」等々でカテゴリー化すること自体が、ある種の暴力に繋がりうるということを、つねにその概念を使う側は気を配らないといけないのだと思う。



わたしは、気質から言えば、HSPっぽい特徴を(かなり)持ち合わせているのだけれど、その概念を自分に当てはめることによって、どういうメリットが自分にあるのかよく分からないので、その言葉を使ったことがない。(今、この記事で初めて書いたと思う。)

もちろん、それによって救われることがあるなら、その言葉は使われるべきなのだけれど、やっぱり、概念は使われるものでしかなくて、私たちの性質そのものや性格に、「HSP」なる本質が隠されていると考えるのは、危険なような気がするんだよな。
「あいつはHSPだから」とか、そういう使われ方につながりうる、というか。
(だから、私のことを「HSP」と呼ぶ人に対しては、反対します)


人は、みな、異なっていて、それぞれが異なる生きづらさを抱えうるわけで、そのことを考えると、人に、あるカテゴリーや概念を当てはめること自体で満足するのではなくて、それを当てはめた上で、当事者たちにどういうメリットがあるのか、というところに目を向けなければならないのだと思う。

性格に何か特定の本質が備わっている、という考え方は、なにか、人間の可能性をかえって狭めてしまっているような気が、わたしはする。

マルクスは、価値はモノの側にあるのではなくて人々の側にある、というようなことを言っていたけれど、
わたしは、その精神疾患は個人の閉じられた心というモノの側にあるのではなくて、その概念を使うわたしたちの側にある、と言いたい。

つまり、その言葉でその人を示すことが、どういうことになるのか、ということなのだけれども。


たとえば、わたしは性自認が男だけれど、「男なんだから」と言われたら、気分が悪い。
それは、事実としては男なのだけれど、やはり、「男」という概念を使うことによって、行為されていることに対して気分が悪いわけで・・・。
人を分類する概念を使用しているのだということについて、それが事実であるかとは全く別に、使用しているということ自体について、自覚的にならないと、人を傷つけることになりかねないよな、と思う。

ウィトゲンシュタインは、「意味とは、語の中に隠された本質があるのではなく、意味は使用の中で示されるのだ」というようなことを言っていたけれど、使用という側面に焦点が当てられることが、もっとあってもよいように思うのだよな。
(「だって本当じゃん」という無責任さに、私は腹が立つ)


人間が誰しも、それぞれ異なる孤独なマイノリティであることと、人間に特定の言霊を宿らせることの恣意性(それは救いであったり暴力であったりしうる)について、これからときどき書いていきたいと思います。

この数年間は、嫌われたり誤解を招いたりということを懸念して、あまりこういうことを書くのに筆が乗らなかったのだけれど、目の前の差別に沈黙しているという事実が、ある意味で差別に加担しているというようなことを最近考えています。
だから、たまに、こういうことを呟いていけたら、さいわい。


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みなと
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