私は毒瓶ー小学生後編

「お父さんになってもいい?」
ぼんやりした記憶の縁に気持ち悪い音がひっかかる。
わがまま勝手な大人達の事情も理解できない幼稚園の出来事である。
大人になってから、私に両親は再度説明することなく時間だけが経っていた。

外出先で飴やおやつが必要と見ていれば私に必ず買い与え、カロリーが高い清涼飲料水も余分に買ってくる。
当時は『優しいパパだいすき、ありがと』と思っていたが、振り返れば糖衣錠の毒であった。

『お金や物質ならニコニコして買い与えたが、無料の優しさやあたたかさはだれもくれないのね』
幼いながらにわかっていた。優しさやあたたかさは物質以上に高いものだと。

養父は突然布団に夜入ってきたり、私の髪の毛を撫でたり、恋人のように手を繋いで歩いたりしていた。
当時は父親の愛情だと頑なに信じていたが、養父となれば、ただのロリコンすけべじじいである。
胸や性器こそ触ってこないが、大衆浴場で一緒に男風呂に入ったことが何度もある。
大人になった私はトラウマで裸を隠している夢を何度も見る。
いわゆる、悪夢の中のフラッシュバックである。

母親も不器用ながら、幼少期は本の読み聞かせやお風呂に数を数えて入るなど母親らしいこともやっていた。
しかし、学年が進むに従って母に口論をふっかけられたり、暴言や虐待を受けた。
『首絞め、金銭バラマキ、締め出し、怖い、、』
そんな記憶しか残らなかった。

母親自身も生きづらさを抱えており、髪の毛をずっと抜いていたり、「自分なんか嫌いだよ」と俯き加減で暗い顔をしていたときもある。
そんな母を見て、いつも私は不安と怒りを感じていた。

『母親ならしっかりして!子供を甘えさせてよ!』
私は母を見て不安と怒りではちきれそうであった。
父にはバレないように、私と二人だけの間暴言や虐待で加害を加える。
法律がなければ、母に報復を何かしらしていたかもしれない。
同情こそしないが、彼女もADHDやASDなのだろう。

事実から逃れるように、家族3人で夜な夜な居酒屋飲み歩き兼夕食な日々は続くのであった。

こんな状況が続く中、私は隠れ不登校になっていった。
友達は少数はいるが、学校の軍人養成所みたいなシステムが苦手である。
私の通う私学は『障害者も健常者に負けず頑張る!それをみた健常者は奮起してがんばれ!』それはモットーとする学校だ。
実際、健常者クラスにもトゥレット障害の子がいて、配慮が見られなかったので障害者と対等ではないと思えてくる。
その空気が嫌で、学校に複数回遅刻していた記憶がある。差別発言になるが、重度の知的障害者が長時間いる環境が私に過剰な緊張と疲労感をもたらした。
私も発達障害者だが、知的障害者とは相性が悪そうだ。

暴力的な施設、我が母校。
私が何かした時に呼びだしされ、縄を振り回して先生から脅されたり、生徒全員で私のかばんの中をあさり没収されたりしていた。(生徒の先生への密告が原因)
障害児教育のあり方もそうだが、カルト村じみている。
ADHD由来の行動障害からきた嘘発言も多く、一番の問題児として取り扱われていたと感じる。

助けてを言えない私はどんどん取り残されていった。自閉症スペクトラムの私は状況が理解できず、自分の安全も確保できない。
離人的な感覚のまま、私は過ごすことが多かった。

こんな離人的な感覚とADDの感覚がひどかったため、忘れ物は日常茶飯事でコンパスや三角定規も定期的になくしていた。
部屋はゴミ溜めに近いほど荒れていた。
ものをなくす度、父を中心に部屋をひっかき荒らされた後探し物をされた。
毎回出てきても、その行為自体に傷つき、感謝できない私がいた。
『このどうしよもない忘れちゃう感覚に振り回されているのに!!!』

人付き合いも私にとっては難関であった。
皆口々に「○○ちゃん!○○ちゃん!」と慕うスクールカーストの頂点みたいな女の子がいた。
私は媚びる能力などなく、もれなく孤立した。
中機能自閉症の子、上級生、下級生が少ないが友達であった。

あのスクールカーストの雰囲気は二度と思い出したくない。
定形発達の世界は大人の社交場をミニマム化したような世界であった。
いつも私は学校の目標で『友人をつくる』とおきまりの文言をかいていた。

発達世界と定形発達の世界は相容れない難しい関係性なのだろうか...

小学校の卒業式は私は泣かなかった。
泣くほど嫌だったことは多々あるが、嬉し涙もない。

私の卒業式はいつも無感情で過ぎ去って行く。